今日の最低限の仕事を終えた孝也は秘書室側からのドアから出ると一度足を止め、毅専属秘書の綾奈に声をかけた。
 「今、会長は?」
 「書類の決裁をされてらっしゃいます」
 尾の言葉に小さく頷いた。
 (親父も玲には甘いからな)
 普段のこの時間、毅が書類の決裁をしているなんてまずありえない。大概がどこかへふらりと出かけていたり、会長室にいるとしても仕事なんてせずに遊んでいる事が多い。社長職を孝也に(無理やり)押しつけてからは、特にその傾向が顕著だ。玲が一人目を出産した直後なんて、毎日昼過ぎに退社し、玲の入院している病院に日参していたのだ。
 上の子供が「パパ」という言葉よりも先に「じじ」という言葉をしゃべった時には、孝也はもう泣きたいほどだった。
 ―――そんな日もあったな。
 と今では笑って言えるのだが、それは今現在孝也の心が満たされているからだろう。

 コンコン。
 一応はノックをして、毅の返事は待たずに会長室のドアを開けた。
 重厚な作りの机は、今、本当に久しぶりにその意味を成すかのように正しい用途で使われている。
 「親父、後よろしくな。」
 割くほどしたノックで顔を上げたらしい毅は、孝也の言葉ににんまりと笑う。
 「たまには、な。ちゃんと奥さん孝行をして玲ちゃんに逃げられないようにな。因みに玲ちゃんが『実家に帰らせていただきます』って言われたら、迷わずお前を家出させるからな」
 どこまでいっても息子より嫁をとる毅の言葉に苦笑をする。
 「玲に『お父様に耐えられないので実家に戻らせて』って言われたあかつきには親父を追い出すから」
 「いわれねーよ。俺と玲ちゃんは仲良しだからな」
 孝也の言葉に毅は心底嬉しそうに笑った。
 長男と嫁との仲は相変わらずだと確信する。
 「まぁ、取りあえず、今日が何の日か玲ちゃんが思い出してくれてるといいけどな。Anniversaryだろ?」
 「……。親父やおふくろが覚えていても、玲が覚えてくれてないって…。」
 ぽろっと出た本音に、毅はかかかとおなかを抱えて笑う。
 「まぁ、玲ちゃんにとっては、Anniversaryじゃなかったのかもな。だが俺と母さんと、お前にとっては忘れられない日なんだ。それでいいだろーが。玲ちゃんにはたくさんのAnniversaryを作ってもらってるんだ。一つくらいは忘れてしまっていることもあるさ。」
 毅の言葉に、
 (たまには、年長者としていいことも言うんだな)
 と思ったのだが、それを口にせず孝也は会長室を後にした。
 机の上でペンを走らせる音が孝也の背中を後押ししてくれているようでなんとなく嬉しい孝也だった。


   *   *   *   *


 (じゃぁ、玲にメールしておこうか)
 送迎用の車に乗った孝也は、運転席との間仕切りを上げるとスマートフォンを取り出した。待ち受け画面を玲の寝顔にしていたのは、結婚してすぐのころ。今は去年のクリスマスに二人で撮ったウェディングの写真だ。
 その日は孝也の誕生日でもあるため、毎年子供たちと両親、そして玲の祖母カヤノと食事に行く。
 クリスマスなのでパーティーを主催していたのは結婚するまでの間だった。孝也のもとに玲が嫁いでからは、玲とそして家族との時間を取りたいという孝也の意向で、家族での時間を過ごすようにしてきた。そして、1時間ばかり。孝也は子供たちを両親に預けて毎年ウェディング写真を撮るのだ。二人の結婚記念日の記念として。
 そうやって、毎年毎年携帯の待ち受け画面は更新されている。孝也の欠かすことのできない大切な行事だ。
 (ふふふっ)
 ついつい、自分と一緒に幸せそうに笑っている玲の笑顔を見るたびに思わず笑いかけてしまう。社長室の机にはさすがに玲とのプレイべーと写真を飾ることはない。玲は孝也と二人で写っている写真は家族で写っている写真よりも数倍綺麗なのだ。
 子供たちが一緒だとどうしても母親の顔になる。それが孝也と二人だと母親ではなく、一人の女性としての楚々とした美しい光を放つのだ。
 そんな写真を社長机に置いてなどいようものなら、孝也は全く仕事にならないだろう。
 まだ、結婚して間もないころに飾っていたのだが、仕事をする時間よりも写真を眺めている時間が多くて。秘書の黒川に有無も言わさず取り上げられ、ご丁寧に玲に直接返されたのだ。
 それ以降、子供たちができるまでは社長室に写真立てが並ぶことはなかった。

 帰り次第答えあわせをしなければならない。いや、するのだ。
 多分、玲は覚えていないだろう。だが、それでいい。玲は覚えていないかもしれない。でも、それでもいいのだと孝也は思う。玲にとってそれほど記憶に残っていない事であっても、孝也と孝也も両親にはとても大切な日であり、それは孝也の両親がとてつもなく玲を大切に思ってくれているいう証なのだ。