「お義母さま、今日は何か特別な日ですか?」
 3歳の娘を抱えなおしながら、玲は孝也の母恵子に問いかけた。
 午前中、子供の相手をしつつ考えてはいたのだ。ずっと、ず〜っと考えていたのだが、何も思い浮かばず時間は過ぎていった。
 「え?あ、あら、誰がそんな事を言ったの?」
 「今朝、孝也くんに…」
 しかし何度考えても玲には思い当たる記念日などはなかった。だが、意味深だった孝也の様子に“何か意味のある日”なのは確実で、帰ったら“答えあわせ”をするというのだ。孝也の妻として、ここは正しい答えを用意しておきたい。(たとえそれが、カンニングに近い行為だとしても)
 「まぁ、孝也ったら中々やるわね。我が息子ながら上出来だわ」
 恵子は嬉しそうに言う。
 「やっぱり、何かの記念日なんですね?」
 眠っている娘を抱いているので大声は出せないが、義母恵子までしているという事は、よほど重要な事なのだろう。
 「そうねぇ。私達一家にとっては、とても大切な日だわ」
 「えっ……」
 “私達一家”だと、玲も入っている筈なのに、まるで分らないのだ。
 しかも結婚してから数年を経て、今では7歳と3歳の子供までいる。そんなに長い間、玲が見過ごしてきた何かの記念日だ。
 (それとも、去年に何かあったのかしら?)
 だが、去年は、特に特別な日が新しくできた気配はない。それに、去年に恵子の言う“私達一家”にとって何か大切な事があれば、いくら天然の玲だって覚えているだろう。
 (んんっ。知らずに過ごしてきたのかも…)
 そうだとしたら、孝也のお嫁さん失格だ。
 「あ、あの、お義母さま・・・・・・」
 「孝也の謎かけにつき合ってあげて?私はちょっと電話してくるから。」
 「電話ですか?」
 「そうよ。我が息子ながらちゃんと覚えていたんですもの。お父さんに報告しなきゃ」
 恵子はうきうきと応じ、応接室から自室に向かった。その足取りはとても軽く、まるでスキップをするような感覚だ。
 (うわ〜ん、どうしよう。お義母さまもご存じってことは多分お義父さまもご存じって事よね)
 しかも今朝の孝也の様子や恵子の様子からするとかなり大事な日だと思われる。結婚する前には毎日スケジュール帳に日記をつけていた。初めてスケジュール帳を買った時には、玲は山本 翼という婚約者がおり、彼との予定を書いていたものだ。だが孝也と出会い、婚約してからは孝也との思い出がいっぱいだ。予定だけではなく、日記まで書くようになった。結婚してからは日記帳を買い、子供が出来るまで毎日書く。そんな日課が出来上がっていた。
 今では子供の世話に忙しくなってしまって、毎日日記を書く習慣はなくなった。とはいえ、何か嬉しいこと、大事な出来事があれば忘れないようにと日記をつけている。
 (後で、日記を見なくっちゃ)
 それはもう少し後、腕の中でこくりこくりと寝始めた娘がもう少し深く寝入ってから子供部屋に連れて行ってからだ。
 


   *   *   *   *



 『今から帰るから』
 そんな電話が玲の携帯にかかってきたのは昼の3時。
 「え?今から?」
 いつもは早くて帰宅は夜の7時。早くて、だ。普通のサラリーマンでも昼の3時に帰宅などありえない。それは孝也が普通のサラリーマンではなく社長だからだろうか?とはいえ、仕事が7時に終わることなんてまれで、夜中に帰宅することが圧倒的に多い。
 『あぁ。今日はバカ親父が俺の代わりに仕事をしてくれることになったんだ。チビたちはお袋が見てくれることになってるから、出かける用意をしてて。久々にデートをしよう。』
 ちょっと意地悪そうな笑みが見えるような電話の口ぶりだ。
 「で、デート?」
 『そう、デート。チビたちが産まれてからなかなか時間が取れなかったしね。今日はどんな服装で来てくれるのか楽しみにしてる。』
 それだけ言って電話は切れた。
 (え?デート?一輝くんと妃那ちゃんの事はお義母さまがみてくれるの?―――二人きりだなんて、本当に久しぶりだわっ)
 そうと決まれば、デートする服選びだ。
 先ほどまで玲の腕でお休みタイムに突入した妃那を子供部屋のベッドに寝かすと、自分たちの寝室のクローゼットをごそごそと漁る。
 (う〜ん、何着ようかな。―――せっかくのでっ、デートだもんね///)
 どうせならいつもは着ない服を着たい、そう思ってしまうのは普段の外出には着れない服が多いからだろうか。
 孝也は自分のいないところで玲が膝上以上の短いスカートを履くのを良しとしない。いや、スカートで出かけるのも本当は嬉しく無いようなのだ。
 だが、今日はせっかくの二人きりのデートだ。独身時代の様に少しは着飾ってみたい。いつもの子供たちの母ではなく、孝也の妻でもなく、孝也の婚約者だったころの玲に戻りたい。そんな風に思うのは玲が今の生活に満足していないわけではなく、孝也の“デート”という言葉の触発されたからだろうか?
 玲のスリーサイズは子供を二人産んでいても一つも変わらない。独身時代の洋服がクローゼットの端に所狭しとかけられている。婚約時代、孝也が気に入っていた洋服たちだ。そこには当然膝上のスカートなどもある。どうしても孝也の気を引きたくて買った洋服だった。それが功を奏したのかはわからないが、それらの服を着ていると孝也は嬉しそうに目を細めて玲を見ていたものだった。

 「ん、これにしよう」
 玲が選んだのは、いつも来ている清楚なワンピースでもなく、清潔感あふれるニットでもない。いつもは着用しない少し大胆な洋服だ。少し胸元を強調しているインナーと膝上のスカート、靴は色こそ抑えめなサーモンピンクだが、かかとのヒールは7センチもある。普段はドレスを着る以外はヒールの高さは3センチ前後のものを履くようにしている。いつでも子供をだっこできるようにと考えているからだ。
 今日は子供二人は義母が見てくれるという。それならと、いつも孝也と並ぶと背が低いのが悩みの例としては今日ぐらいはいつもは履けないハイヒールを選んでみた。
 (ちょっと大胆かな?)
 そうは思うのだが、いつもは孝也の妻以前に子供たちの母として生活をしている玲だからこそ、たまには孝也に女性として意識されたいと思ってしまう。別に孝也が玲を女性として見てくれていないわけではない。大事にされていないわけでもない。何ひとつ不満があるわけではないが、でも、たまには孝也に一人の女性として感嘆の瞳を向けてもらいたいと思うのが女心だ。
 (どんな顔をするのかな?)
 いつも玲や子供たちを見る時は、代表取締役として冷淡な光を宿しているその瞳は、優し光をたたえている。それで満足なはずだった。
 それだけで嬉しいはずなのに、二人きりの時くらいはもっと情熱的な気持ちをと求めてしまう。
 先ほどまで、今日が何の日かと気にしていたのに、洋服を選んでいるうちにそんなことは気にしなくなった。多分きっと大切な日なのだろうが、それよりも孝也がこの洋服を着た自分を見てどう反応を返してくれるのかが気にかかる。
 (だって、分からないもの)
 もうタイムリミットでそんなにない。悩んだところで詩型がない。もし本当に何かを知らないまま、月日を過ごしてしまっているなら、悔やんだところでどうすることもできないのだ。
 (孝也くんが、答えを教えてくれるもの)
 根がポジティブの玲としては、そんなことに悩むくらいならその時間を有効に使おうというのだ。

 玲がすっかり身支度を終えたころ、孝也が帰宅したと玲は報告を受けた。