「何か用?」
 孝也は仏頂面で父、毅がいる会長室を訪れた。今朝は何も言ってなかったし、孝也としては本日は何としても七時には帰宅をしたくて、休憩もろくにとらずに仕事をしていたのだった。
 (これで小さい用事だったら、容赦しないからな)
 そんな物騒なことを考えていた。
 だが、当の毅はそんな殺気立った孝也の怒りなど気にも留めていないようだ。



   *   *   *   *



 「玲、今日は早めに帰ってくるから」
 朝、いつものように送り出してくれようとする玲にそう宣言したのは孝也の方だ。
 新婚当初。いや、婚約当初から、玲は出来る限り、孝也を玄関まで見送ってくれる。初めの内こそ、執事やメイドも一緒に送ってくれていたのだが、それも結婚してからはパタリとなくなり、数少ない二人きりでいられる貴重な時間だった。
 この時ばかりは二人の子供たちも玲の手を離れ、孝也の両親に預けられる。
 「今日?」
 何かあったかしら?と頭に疑問符を飛ばす玲の様子に、孝也は苦笑する。
 「をう。今日は大切な日だろ?」
 「え?だって、今日は孝也くんの誕生日でもないし、子供たちのお祝い事の日でもないでしょ?お義父さまお義母さまの何かの日なの?」
 そうだとしたら大変だ。今まで何年も共に過ごしてきたというのに義父母の祝うごとを知らずに過ごしていたということになるのだ。
 (まぁ、どうしましょう。これじゃ孝也くんのお嫁さん、失格だわっ)
 小さいころに両親を事故で亡くした玲にとって、“両親”と呼べるのは孝也の両親だけだ。
 幸いなことに、義父母は(ともすれば実子の孝也よりも)可愛がってくれているのだ。だかrこし、二人の結婚記念日や誕生日、父の日母の日その他イベントごとにも気を付けるようにしている。
 「いつも言ってるけど、お袋はともかく、バカ親父に玲が気を遣う必要はないって。まぁ、お袋にも気を遣わなくていいんだけどさ」
 「―――うん……」
 孝也はいつもそう言うのだ。婚約当初から何かにつけ玲にかまう両親に、いささか不満があるのだという。
 『玲には俺だけを見てて欲しい』
 というのが彼の主張で、時には自分の息子や娘にまで嫉妬してしまう。勿論、自分の両親は嫉妬の標的である。
 「まぁ、とりあえずうちの両親がらみじゃないかけどね」
 「じゃぁ、何の日なの?」
 やや眉間にしわを寄せつつ問うのは、玲が全く見当がつかないからだろう。
 時々、孝也は思いついたように玲にプレゼントを贈ることがある。何かの記念日とかでがなく、出張に行った先や玲の好きなケーキ屋の前を通った時に。
 本当は宝飾品を贈りたいのだが、記念日でもなんでもない日に買ってくると、嬉しいけどどことなく申し訳なさそうな顔をする。やはり贈るなら満面の笑顔で受け取ってほしい。だから記念日以外なら、手軽の受け取ってもらえそうなものを買うようにしているのだ。
 「全く分からない?」
 孝也の問いに素直に頷いた。
 (お義父さま、お義母さまは関係ないみたいだし……)
 考えられることと言えば子供たちや孝也の誕生日だが、それはさすがに玲もちゃんと把握している。
 「まぁ、じゃ、考えといて。今日帰ったら答えあわせをしよう」
 ちょっと意地悪な言い方だが、それくらいは許してもらいたいのだ。いつもは子供中心の生活を送っている玲の気持ちを少しくらい自分が独占してもいいのではないだろうか?
 困惑する玲に微笑みかけ、孝也は仕事に向かった。



   *   *   *   *



 それなのに、だ。
 (全く、冗談じゃないぜ。親父の相手をしていたら、その分帰るのが遅くなるって)
 それでは孝也のたくらみが台無しだ。
 「―――お前、今日玲ちゃんに『早く帰る』って約束してきたんだってな?」
 何もかもお見通しだと言わんばかりの毅の態度に内心ムッとする。
 「何で知ってんの?」
 「さっき母さんから電話があってな。玲ちゃんが『今日って何かあったか』って母さんに確認したらしいぞ」
 孝也の母と玲は本当の親子か友達じゃないのか?と聞きたくなるくらいに仲がいいのだ。
 嫁姑の仲がいいのは、本来喜ばしい事だが、孝也としては面白くない、自分でも狭量だとは思うのだが、玲の仲では自分がぶっちぎりの一番でないと気が済まないのだ。
 「で?」
 不愛想に先を促す。
 「お前、玲ちゃんに気付いてもらってなくて、落ち込んでやしないかと思ってな」
 「……別に」
 「お前にとって特別な日でも、玲ちゃんにとってはそれほど大切な日じゃねーって事だもんな」
 「……。」
 「可哀想になぁ……。大切な記念日なのにな。玲ちゃんは全く全然覚えてなかったとはね」
 「―――そういう親父は知ってるのかよ?」
 「あぁ。勿論。俺も母さんも知ってるぞ。気づいてないのは玲ちゃんぐらいじゃないのか?」
 言外に“玲は鈍い”と言われた気がして、顔を横に向けた。
 「で、分かってくれてるんなら俺は早く仕事に戻りたいんだけど?」
 からかうくらいなら呼ぶな!と言ってやりたいくらいだ。
 「まぁ、そうあせるな。今日はもう上がっていいぞ」
 「は?」
 「今日はお前にとってもだが、俺や母さんにとっても大切な日なんだ。チビ二人は母さんが見てくれることになってるから、二人きりで出かけて来い」
 毅らしからぬ言葉に孝也は思わずまじまじと見つめてしまう。
 「何だ!」
 照れくさいのか、やや声を荒らげる毅に、孝也はにんまりと笑って見せた。
 「いや、玲を大事にしてくれてるなって思って」
 それじゃ、当たり前。こんなドラ息子にしちゃ、勿体ないくらいの嫁さんを連れてきたって母さんと言ってるくらいだからな。―――今日の答えあわせ、合ってるといいけどな」
 「―――っさい。ほっといてくれる?これは玲と俺との問題だから」
 「お前が一人で空回りしてなきゃいいけどな。ってことで、今日はもう上がっていいぞ。」
 そう言いながら、毅は今日の業務が変更になることを告げようと、受話器を手にしている。その相手はおそらく数週間前より毅の専属になった澤井綾奈だろう。
 (珍しいよな、親父がヘッドハンティングしてくるというのは……)
 孝也が知っている毅は一見ちゃらんぽらんだが、仕事に関してはどこまでも妥協しない人だった。
 少し頭をかしげながら、孝也は会長室を後にした。