壁の時計は3時15分を回っている。
 (こんな時間に起きてるんだもん。誰だかわかんないけどコーヒーとかって飲むかなぁ・・・)  
 玲は思い切って書斎のドアをノックした。  
 「―――はい・・・。」  
 書斎のなかからくぐもった男の人の声が聞こえる。  
 玲がその返事を受け扉を押し開けると、デスクの重厚な椅子に座りこちらを振り返る孝也の姿があった。  
 「孝也くん?!」  
 「玲?!」  
 「「どうしたの、こんな時間に?!」」  
 二人の声が同時に重なった。  

 一瞬間をおいて先に口を開いたのは、孝也だった。  
 「どうしたの、こんな時間に?」  
 孝也は正確に同じ言葉を繰り返した。  
 「え?」  
 「え?じゃないでしょ。もう3時過ぎてるでしょ。それに、気分の方はどう?」  
 少しぶっきらぼうだけど優しい孝也の声が、先ほどまで沈んでいた玲の心にや優しくしみこむ。  
 「・・・ありがとう。もう大丈夫だよ。心配かけてゴメンね。―――孝也くんはまだ仕事なの?」  
 「ぅん・・・。あともう少しなんだけどね。」  
 そう言いながら視線を手にした書類に移した。  
 「あ、あのね、孝也くん・・。」  
 「何?」  
 「あ、あのね・・・。まだ仕事するんだったら、コーヒーか何かいれようかなぁって・・・。」  
 その声に孝也は書類から顔をあげ、ゆっくりと微笑んだ。  
 「―――サンキュ。」  
 玲はその孝也の微笑みに顔を赤らめながらそっと書斎を後にする。 先ほど起きたときに胸をふさいでいた孝也と夏季の関係も、他愛ないようなことに思われた。  
 「はい、どうぞ。孝也くん。」  
 玲はキッチンを借りて、孝也の分のコーヒーと自分の紅茶を入れる。孝也のコーヒーと自分の紅茶に砂糖とミルクを落としてから孝也にコーヒーを手渡した。  
 「あぁ。」  
 孝也は顔を上げずにそのコーヒーカップを受け取る。そして一口すすった。  
 「―――サンキュ。」  
 孝也がコーヒーカップを少し持ち上げて笑った。  
 「う、ううん。それくらいしか出来ないもん。」  
 玲は寂しそうにポツリと応える。  
 「玲?」  
 いつもと違う玲の様子にどうかしたのかと言外に問いかける孝也に玲は首を横に振った。  
 「ううん。なんでもない・・。」  
 「なんでもなくないでしょ?それに今日は昼くらいから様子がおかしかったし・・・。」  
 たたみかけるように問う孝也に、玲はまた首を振る。  
 「本当になんでもないの。」  
 「―――俺には言えないこと?」  
 「・・・・・・。」  
 「俺ってそんなに頼りない?玲の力になれない?」  
 そう言って孝也は手にしたコーヒーカップを脇に置いた。  
 「俺は玲の婚約者だろ。それなのに俺には頼ってくれないんだ?」  
 そう寂しそうに微笑んだ。  
 「・・・孝也く・ん・・・。」  
 そう呟く玲の元に孝也は一歩一歩近づいた。  
 そして玲が座っているソファーの横に腰を落とす。  
 「玲・・・・。」  
 孝也は両膝の上で握られていた玲の手を自分のそれでそって包み込んだ。  
 「話して・・・。」  
 そう囁きながら、彼女の手に口付けた。  
 「あ、あのね・・・。」  
 玲はその孝也の突然の行為に面食らいながらも、ボツボツと話し始める。  
 決して自分の気持ちは言えないけども、でも、話せるところまで話そうと玲は決心したのだ。  
 「私の都合で、孝也くんに婚約者の代わりをやってもらってるのが、すっごく孝也くんに悪いなって・・。」  
 孝也は話し始めた玲の言葉を黙って聞いている。  
 「仕方なかったのかも知れないけど、おじ様とおば様を結果的に騙してるのも・・・。」  
 それはこの婚約を孝也にお願いした時からずっと心の片隅にある玲の気持ちだ。  
 「でも、それを言い出したのは俺だし、そもそもこの婚約は玲のせいじゃないだろ?」  
 孝也は玲の心をほんの少しでも楽にしてあげたくて、言葉を紡いだ。  
 「でも、孝也くん。好きな人がいるんでしょ?」  
 思い切ってそう切り出した。  
 「『好きな人はいるけど、振られた』って言わなかった?」  
 そう寂しそうに笑う孝也に玲はかすかに頷いた。  
 「―――でも、『忘れられない』んでしょ?」  
 今度は孝也が押し黙る番だ。  
 「それなのに、私ったら自分の都合だけでお願いしてしまって・・・。」  
 そう言いながら、玲は孝也の眼をまっすぐと見返した。 先に眼を逸らしたのは、孝也、だった。  
 「・・・それが誰か、気がついてたんだ?」  
 そう呟いた。それは疑問形をとってはいたが、確認だった。  
 「―――うん。今日、ね。気がついたの。」  
 「そっか・・・。」  
 孝也は玲の手をそっと離した。  
 そうして、再びデスクの椅子に腰を下ろした。  
 「ゴメンね・・・。迷惑をかけちゃって・・・。」  
 玲はそう言うと、一大決心をしたように立ち上がり、デスク越しに孝也の瞳をそっと覗き込む。 一瞬だけ、だった。 テーブル越しに玲が身を乗り出し、孝也の唇にそっと口付ける。  
 「・・・・れ・・。」  
 い。と、言葉を続ける事も出来ないようなホンの一瞬。 玲は孝也に口付けてそっと離れた。  
 「おやすみなさい・・・。」
 玲はそう言うと、孝也の書斎を後にした。  

 書斎の中に残されたのは、玲の不意打ちに呆然としている孝也だけだった・・・・。


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