「玲・・・。」  
 孝也は、彼の母親の勢いに押されてやや呆然としている玲に囁きかけた。  
 「―――孝也くん・・・」  
 「ごめん。びっくりしただろ? いつもはあんなにテンション高くないんだけど・・・。」  
 半ば苦笑しながら誤る孝也に、玲は大きく首を振った。  
 「ううん。素敵なお母様でらっしゃるのね。」  
 玲の声に僅かながら、悲しみが込められていた。  
 玲は幼い頃、両親と兄を交通事故で失っており、彼女の祖母である如月 カヤノに育てられたのだった。カヤノの愛情を一身に受けていたとはいえ、両親のいない寂しさを感じずにはいられなかった。  
 「・・・素敵かどうかはともかく、普通じゃないのは確かだけどね。じゃぁ、とりあえず荷物を片付けよっか?」  
 玲を促し、自分も手伝おうとする孝也に玲は慌てて断る。  
 「い、いいよぅっ。孝也くんっ。私、自分で片付けるし・・・。」  
 先ほどの寂しそうな表情とは違い、やや慌て気味で、真っ赤にしている玲の様子に、孝也はいつの間にか口元に微笑を称えていた。  
 「何で?」  
 「え?なんでって・・・、だってここに住まわせてもらってるのに、その上・・・。」  
 「いいよ、別に。俺が手伝うって言ってるんだし・・・。」  
 玲の慌てぶりがかわいらしく、もう少し困った顔を見たくて言葉を重ねる孝也に、玲は先ほどよりも一層顔を赤らめた。  
 「ほ、ホンとにいいの。」  
 「へぇ、婚約者の俺に見せられないものがあるんだ?」  
 悪戯な光を称えた孝也の瞳が玲のそれをそっと覗き込んだ。  
 「―――孝也くん、私をからかってるでしょ?」  
 玲がこれ以上ないくらい顔を真っ赤にして問いかけると、孝也のほうも素直に応えた。  
 「当たり前。」  
 「んもうっ。孝也くんなんて、だいっ嫌い!!」  
 玲がそう言ってむくれて横を向くと、その頬に静かに口づけた。  
 「じゃぁ、夕食のときに。」  
 そういい残し部屋を去る孝也の後姿を見ながら、玲はたった今孝也が触れていった頬にそっと摩っているのだった。     


「―――か、片付けなくっちゃ。」  
 どれくらい、ぼうっとしていただろうか。 玲は自分にそう言い聞かせると、先ほど孝也が運んでくれた荷物を紐解くことにする。  
 玲が持ってきた荷物はさほど多くはない。  
 洋服と化粧品、そして少しばかりの身の回りのものを詰めたボストンバックだけだ。  
 その事には、孝也は少し驚いたようだった。  
 「荷物って、これだけ?」  
 迎えに来た彼が指差したのは、玲の隣に置かれたボストンバックだった。  
 「うん。そうだけど・・・」  
 そう返事をした玲に一つ頷くと、孝也はそのボストンバックを自分の車のトランクに載せ、玲を助手席に迎え入れると、静かにアクセルを踏むのだった。  
 (普通、もっと色々持っていくものだものね)  
 そう思うと玲は少し、自嘲する。  
 これが本当の婚約であれば、玲だって色々用意しただろう。  
 だがそうでない以上、余り持っていくわけにはいかない。  
 本当は、祖母がもっといろいろ用意してくれようとしていたのだが、玲はそれを丁重に断ったのである。
 「え?玲。これだけしか持って行かないのかい?」  
 自宅を出るとき、祖母がそう残念そうに呟いたのが今でも耳に残っている。  
 玲がお嫁に行くために、祖母が用意してくれたものは何一つ持っていかなかったからだ。  
 「うん。だってお嫁に行くんじゃないもの。」  
 そう応えた玲に、不思議そうに見返す祖母の表情が今でも忘れられない。 だが、玲の返事に何もいわずカヤノは玲を見送ってくれた。


******


 (―――『だってお嫁に行くんじゃないもの。』・・かぁ。)  
 自分で言っておきながら、何とも気の滅入る言葉である。 自分を大切に育ててくれた祖母を騙す形になってしまったのを、改めて実感してしまう。  
 (ううん。それだけじゃない。孝也くんの優しいご両親も騙しているんだ。)  
 そう思うと、とてもやりきれない気持ちでいっぱいになる。  孝也の両親が手放しで自分を歓迎してくれた分、いっそう辛くなる。   
 玲はふと、南に面している大きな窓を見上げた。  
 窓には、玲の大好きなピンク色のカーテンが揺らめき、風がこの部屋を巡回していることを証明している。  
 光も存分に取り入れられ、白を基調とした中に所々配置された薄い翼色の家具を美しく照らしていた。  
 玲が孝也を婚約してから数日間で用意されたであろうこの部屋のそこかしこに、孝也の母親の気遣いが見て取れた。  きっと玲の為に用意したのであろう。  
 それを思うと、玲はとても申し訳なく思ってしまう。  
 (だって、本当は孝也くんのお嫁さんじゃないのに・・・)  
 本当はこの家に孝也や彼の両親と一緒に住むはずなのは、玲ではなく、他の女性なのだ。そう思うととても悲しくなる。  
 翼に失恋してたった数日。  
 こんなに早く、翼が去った痛手から回復している自分を薄情だと思うときもある。  
 (あんなに大好きだったはずなのに・・・。)  
 たった数日で、孝也の存在が翼のそれをはるかに凌駕したのだ。  
 数日前までは、まさか孝也の自宅で同居することなど考えられなかった。  
 だが、今日。孝也の自宅に来た玲はそれがひどく自然な気がしているのだ。  
 本当の自分の居場所にいるような、そんな気さえしてくる。  
 「本当は私の居場所ではありえないのに・・・」  
 玲は自分にそう言い聞かせるように呟いた。 少し前の自分にとっての孝也の存在する位置と、今の自分にとっての孝也のそれが、少しずつずれてきているのだ。 少し前では考えられないほど、近くにいる。  
 (何年も翼お兄様が私の中で占めていた位置とも違う)  
 もっと、大きく大切で、でも翼よりもずっと近い存在。 それが、今の孝也であった。
 だがいずれはこの婚約も解消され、孝也は自分以外の女性と家庭を築くことになる。 そしてその時、玲はこの屋敷から、孝也の前から姿を消さなければならなくなるだろう。  
 ―――その時、翼お兄様が去った時ほど素直に受け止められるのかな。  
 そう自分に問いかけた玲は、小さく首を振った。 これ以上、孝也の傍にいると、翼が去ったとき以上の悲しみが襲うだろうことは疑い得ない。  
 そう、実感していた。  

だが、もう少しだけ。  
孝也の傍にいたかった。 たとえ、離れることが辛くなるであろうことがわかっていたとしても、もう少しだけ、孝也の傍で、彼に寄り添っていたい。 そう痛切に思った。