玲を如月邸まで送っていった孝也が、自分の会社に戻ったのは、お昼を少し過ぎた頃だった。
 いつものように、秘書の挨拶を背に受けながら自分の部屋に入った孝也は、自分の椅子に座る影を認め、眼光を鋭くする。
 その影は、入り口に背を向け座っていたが、孝也が入ってきた気配を感じたのか、ゆっくりと振り返った。
 「―――こっの、放蕩親父っ!!」
 その孝也の声に、毅は片目を少し見開いた。
 「ぉう、久しぶりだな。馬鹿息子!!」
 毅のそのセリフに、今度は孝也の肩がゆれる。
 「・・・その馬鹿息子にこの会社をさっさと明け渡して、家出したのは親父だろ?」
 「家出って、人聞きの悪いこと言うんじゃねぇ!! ちゃんとかあさんと行ってるんだから家出じゃないだろうが。」
 そう主張する毅に対し、孝也は特別感銘を受けた様子もなく、さらっと無視を決め込む。
 「―――それで、放蕩親父がいまさら何の用?」
 そう問いかける孝也の質問は、しごく当然のことであろう。
 昨年、毅は孝也に会社の全権を譲るとすぐに、妻を連れて世界旅行に旅立ったのだった。その報告でさえ一枚の置手紙だけで、孝也が二人が元気であること知ることが出来るのは、1ヶ月1度の母親からの手紙だけである。
 つまり、そんな事情から先ほどの質問となったわけであった。
 「おぅ、お前、今度結婚するんだってな。で、その花嫁の顔を拝みにかあさんと帰ってきたってわけだ。」

 その毅の当たり前だといわんばかりのセリフに、孝也は彼らしからぬ行動を起こす。―――つまり、呆然としていたのだ。
 だが、そこはふてぶてしい孝也のこと。すぐに正気に戻ると、先ほどの様子は露ほども見せない口調で、
 「どこで、その話を?」
 と、尋ねた。 それはそうだろう。孝也が玲と婚約したと言ったのは、つい2時間ほど前の話なのである。まだ、この話が、巷の噂になるには早すぎる。
 孝也が不思議に思っても仕方ない。
 「さっき、ばばぁから、直接電話があってな。お前が玲と婚約しているらしいが何か知らんかって言ってきたんだよ。あのばばぁと親戚になるのは少しアレだが、あの玲ちゃんがウチの嫁になるとは・・・、お前にしては大手柄だ。」
 そう毅は断言する。  毅とカヤノは旧知の仲である。そんな電話をカヤノが毅にしたとしても何の不思議もない。
 (・・・・なんで、言うかな。しかもよりにもよってこの親父に・・・。)
 思わず、そんな理不尽なことを考えてしまう。
 実は、孝也は今回の計画についとは別にある作戦を思いついていたのだが、
 (親父が玲との事を知ったとなると、中止かな・・・。)
 そう思うとため息が出る。
 「じゃぁ、親父。俺、仕事するから」
 そう言って、仕事に戻ろうとした孝也の背中に、毅はこう語った。
 「あ、それと、玲ちゃん。来月からうちで住むことになったから。」
 毅はそれだけ言うと、孝也の返事を待たずに踵を返す。
 「・・・え?ちょっ、親父っ!!」
 そう慌てる孝也の声に応えたのは「ぱたん」という、扉が閉まる音だけだった。


******


 「・・・玲がうちに住む、だって?!」
 それは正直、困る。
 別に孝也は玲が嫌いなわけではない。もし嫌いであれば、玲が困っているからといって、婚約者の役など買って出たりはしない。
 だが、それも二人が別々に住んでいればの話である。
 玲と一緒に住むとなると、事情はおのずと変わってくるというものだ。例の作戦だって、実行できなくなる。
 先ほどの毅の態度からは、毅の意思は固いと踏んだ孝也は、(というのも、言いたいことだけ言って、相手の返事を聞くこともせずに部屋を出たあたり、毅にとって相手の都合などお構いなしということであろう)すぐに、デスクの上に置かれている電話から、自宅に電話を入れた。
 (親父の暴走を止められるのは、かあさんしかいない!!)
 正確に2度の呼び出し音の後、久しぶりに母親の声が受話器の向こうから聞こえてきた。
 「はい、滝野でございます。」
 「あ、かあさん?俺。孝也」
 孝也が名乗ると、母親の声が大きく弾んだ。
 「―――まぁ、孝也? おめでとう、婚約したんですって?」
 嬉しそうにそう話す母親に、孝也は声をかけ損ねる。その間も、機関銃のように途切れることなく、言葉がなだれ込んでくる。
 「本当に、嬉しいわ。玲さんなんですってね?お相手。母さん嬉しくって、お父さまに旅行中止にして玲さんをうちに呼ぶようにお願いしたのよ。」
 という。
 (・・・首謀者は、かあさんだったのか・・・)
 本当なら、あと半年は帰ってこないはずの二人が、急遽帰宅したのはそういうわけだったのだ。孝也の嫁などに興味がない(だろう)毅が、母親を連れて帰宅してくるなどおかしいと思っていたのだが、母親が首謀者だとわかり、孝也は妙に納得した。
 「―――かあさん。玲のこと知ってるの?」
 すこし怪訝な孝也の問いに、母親のほうは自信満々に答えた。
 「えぇ。如月 玲さんでしょ?知ってるわよ。ほら、私の参加しているチャリティーがあるでしょ?あそこに玲さんも出入りしてるのよ。すっごくよく出来た娘さんでね。常々孝也のお嫁さんには玲さんがいいわって思っていたんですもの。」
 そう話す母親は本当に嬉しそうである。
 「かあさん・・・。いくら俺でも、結婚する前に同棲なんか出来ないし、玲のばあさんが黙ってないって・・・。」
 「ふふふ。それがね。先ほど如月さまにご挨拶の電話を入れたのね。その時に、OKの返事をいただいたのよ。」
 そう言うと、これから玲の部屋の準備があるからと、一方的に電話を切られた。
 「―――ったく・・・。玲になんて話せって言うんだ?!」
 孝也のほうもため息とともに、受話器をたたきつけるのだった。