「お待たせしてすみませんでした。」
 玄関ホールに急ぐと、カジュアルな中に品の良さを伺わせる装いの女性が笑顔で笑みを返してくれる。
 「いえ、いいんです。―――それよりも、お義父さまからのいきなりなお話でびっくりされたでしょ?」
 綾奈は社長夫人とは、「専用の車に運転手付き」というイメージを持っていたのだが、彼女はそうではないらしい。あたりを見回したがそれらしい車も人も存在しなかった。
 「え、自己紹介をしとかなきゃ、ですね。私滝野玲っていいます。」
 「あ、こちらこそすみません。澤井綾奈です。今日は朝から私の為に時間を取ってくださってありがとうございます。」
 そう恐縮する綾奈に、玲は心底嬉しそうに微笑んだ。
 「お礼を言うのはこちらの方よ。今日一日、子供たちとは違う時間を過ごさせてもらえるんですもの。」
 「お子さんがいらっしゃるんですか?」
 「えぇ。7歳と5歳なの。」
 すごく手がかかるのだと玲は苦笑する。
 「でも、かわいい盛りですよね。」
 「そうね。―――でも、たまには子供たとは違う時間を持ってみたいとも思っちゃうわ。」
 贅沢な悩みだけど、と片目を閉じて見せた。
 綾奈の周りにはまだ子供どころか結婚している友達はいない。だが、子供のいる生活には憧れに似た感情を持っている。
 特に、両親を亡くしてからは一層その気持ちが強くなった気がする。
 「さぁ。それよりも買い物に行きましょう。」
 玲は右手のこぶしを上へあげて見せた。その手にはブラックカードが握られている。
 「今回の買い物はお義父さまっていうスポンサーがいるんですもの。思いっきり買い物しなきゃだわ。」
 「え…。あ、じ、自分で払います!!」
 だからブラックカードを片手に腕を振り上げないでほしいというのが、綾奈の本音だった。道行く人がじろじろと綾奈たちを見ている視線が痛い。
 「―――綾奈さん。黒川さんからも話を聞いてるかもしれないですけど、これはお義父さまが言いだしたことなのよ。しかも、『仕事に必要なもの』を買いに行くのよ。簡単に言えば、『制服』ってことかしら。今まで、仕事をしてきたところから『制服』を買ったことなんてなかったですよね?」
 言外に「なかった筈」と言いたいのだろうことは丸わかりだ。勿論、玲の指摘通り制服を「買った」ことなど一度もない。
 「でも、それは、「制服」であって…。」
 「じゃぁ、反対に聞きますけど、今回の仕事に就かなくても今から買に行く洋服は買う予定とかはありました?」
 そう言われると反論は出来ない。事実、今までの綾奈の生活では、絶対に必要のないものでしかないのだから。
 「でしょ?無理やり頼みこんだお義父さまが「スポンサーになる」って仰ってるんですもの。いいんじゃないかしら?それでどうしても気が咎めるというのなら…。」
 「言うのなら?」
 ちょっと身構えてしまう綾奈に対し、玲はにっこりと笑って見せた。
 「私におススメな喫茶店とかを教えて下さると嬉しいわ。」
 「き、喫茶店、ですか?」
 「えぇ。私あんまり喫茶店とかって行ったことがないの。特に綾奈さん世代のよく行くお店とかには。やっぱり周りに若い人がいないとそんな情報とかって入ってこないんですもの。」
 まるでそれで平等だと言わんばかりである。
 「でも…。」
 「私の提案に乗って?それが多分正解だわ。」
 イマイチ納得ができないのだが、それでも玲の提案はありがたいことには変わりはない。明日からの仕事着も必要不可欠だ。変に遠慮して滝野コーポレーションの会長秘書として恥ずかしい恰好は出来ない。ここは、玲の気遣った提案に乗るべきだろう。
 「ありがとうございます。―――えっと…。」
 (何て呼べばいいのかな?社長夫人?滝野さん??)
 「そうね。「玲」って呼んでくれると嬉しいわ。」
 ―――やっぱり、思っていることが顔に出てるんだわ。
 今まで家族や友達や、この間知り合ったばかりの滝野毅・黒川などにさんざん指摘されてきたことだが、改めて玲に指摘された気がする。
 でもそれはすごくさりげなくって嫌な気はしない。
 「ありがとうございます。玲さん。」
 綾奈の言葉に玲がにっこりと笑った。
 「気にしないで、本当に。―――もとはと言えば、お義父さまの提案ですもの。「戦闘服」はお義父さまが用意するべきものだもの。それに、喫茶店でお友達とおしゃべりだなんて本当に最高の時間だと思うわ。」
 綾奈の手を取り、玲は両手をぶんぶんと上下と振り回した。
 「さぁ、行きましょう。」
 嬉しそうに笑って、玲は綾奈の手を引っ張って駅に向かって歩き出した。
 その姿は、本当にそこら辺にいるような20代半ばの女性にしか見えず、とてもではないが二児の母には見えない。綾奈の抱いていた社長夫人像がばらばたと大きな音を立てて目の前で壊れていく。―――それもいい方に。
  (なんとなく、会長がべた褒めしていたことがよくわかる気がするわ…。)
 一見、強引に話を進めているように見えるが、ちゃんと綾奈が素直に受け入れられるようにさりげなく心を配ってくれたり、今回も自家用車とかではなく、一班庶民の強い味方である電車を乗ろうと綾奈が少しでも引け目を感じない様にとの配慮なのだろう。
 (それとも、電車くらい乗ることはあるのかな?)
 そんな疑問が綾奈の脳裏をかすめた。以前、綾奈の読んだ漫画の本では電車に乗れない『お嬢様』がいたり、実際に某元野球選手などは、切符の買い方を知らなくて小学生に教えてもらったことがTV番組で映っていたのを思い出した。
 「ん、でも。」
 綾奈のことを思って電車に乗ってくれることが何となく嬉しく思えるのだった。