引越しが漸く完了したとき。綾奈はふと気が付いた。引越しよりも大きな問題が目の前にあることを。
 「あぁ〜っ!!」
 綾奈と一緒に荷物の片づけをしていた諒一と叶斗の手がふと、止まった。
 「何だよ、アヤ。大きな声を出して。」
 「何?何か買い忘れでもあったの?」
 あわてた様子もなく二人の弟はそう問いかけた綾奈が突然思い出したように言葉を発するのはそんなに珍しいことではない。それを十数年一緒に暮らしてきた二人には別段普通のことだった。
 「あ、あのさ。ちょっとした疑問なんだけど。」
 「うん。」
 「私、明後日からの出社の時って何を着て行ったらいいのかな?」
 その問いに、諒一も叶斗思考が止まる。
 (そんなこと、今気づきたのか?)
 (何か対策を練ってるのかと思ってたんだけど?)
 そうは思っているが声には出さない。
 「私、あんなところに着ていくような服って持ってないわよ。」
 自分の持っている服をいろいろ思い出すが、どう考えても大企業の秘書にふさわしい服なんて持ってるわけがない。
 「っていうか、どんな服装がふさわしいかも知らないんだけど…。」
 尤もである。綾奈の周りにそんな仕事に就いている人なんていないのだ。はっきり言って未知の世界である。勿論それは弟二人も同様で、的確なアドバイスなど出来るわけはなし。
 「ホントに、どうしたらいいと思う?」
 (確かに『何かあったらすぐに俺たちに相談すること』とは言ったけど…。)
 (相談する相手と内容を考えてから相談しろよ。)
 そう思うのだが、大見得きった手前そんなことは言えない。
 「まぁ、とりあえず両隣にあいさつに行ってからゆっくり考えたら?」
 「明日日曜日だし、買い物に行こうぜ。」
 二人に言われ、綾奈も素直に頷いた。
 「そうよね。先に両隣の人に挨拶にいかなきゃ、だわ。」
 先ほどの叫び声が何だったのかというくらい素直に頷いた。あまり深く考えない綾奈だった。
 

               *       *       *      *      *


 ピンポーン。
 翌朝の10時。綾奈の新居のインターフォンが軽快な音で来客を知らせる。
 「はい。」
 諒一と叶斗との約束事その一―――相手を確認してからマンションのドアを開ける。それを忠実に守るためにTVモニターで相手を確認してから一階の施錠を外した。そこに映っていたのは昨日、隣に挨拶に行った際に紹介された女性だった。
 昨日の夕方、引越しの挨拶に訪れた綾奈たちを迎えたのはその部屋の住人であり先日の滝野コーポレーションに綾奈を連れて行った黒川だった。全く知らない人よりはと毅が配慮した結果だという。しかも月曜日からは彼が綾奈の直属の上司になるのだ。
 (かなり苦手なんだけどなぁ…。)
とは思うものの、そんな個人的なことは言ってはられない。因みに黒川が左隣、右隣は速水という、こちらも綾奈よりは少しだけ年上の男性だった。
 黒川の方は寡黙で何を考えているかわからないようなところがあるみたいだが、速水の方はそれとは異なり柔らかい物腰の男性だ。二人とも滝野コーポレーションの社員で、この10階建のマンションに最近引っ越してきたばかりだという。そもそもこの社宅という名のマンションは1階から3階までが普通の賃貸マンション、4階から7階までが分譲、8階が綾奈を含めた数人が社宅として使っており、使用していない8階の残りの部屋と9階・10階がオーナーである滝野毅の持ち物となっているのだ。
 その黒川の部屋に挨拶に行った際に彼から一枚の写真を見せられた。
 「あの、この方は?」
 黒川の見せてくれた写真には一人の女性が映っている。綾奈よりは少し年上だが、育ちの良さがその写真からもにじみ出ている。
 「彼女は滝野玲さん。滝野財閥社長夫人だ。」
 (この間、滔々と会長が自慢していた息子の嫁ってことね。)
 綾奈の記憶では、数年前に現会長の息子が結婚とともに父親の跡を継ぎ社長へ就任しているはずだ。
 (―――っていうか、黒川さん。なんで社長夫人の写真なんて持ってるのよ?よもや永遠の片思いってやつかしら?)
 そんな綾奈の不埒な考えはしっかり顔に出ていたらしく、ギロッと睨まれる。
 「この写真は、会長より昨日お借りしたものだ。…それよりも、考えていることが顔に出すぎている。気を付けた方がいい。」
 お説御尤もである。綾奈もそれは反省すべき点であることを自覚しているために敢えて反論はしない。
 「それよりも、だ。明日、君を訪ねて社長夫人が来ることになった。」
 「…は??」
 何でですか?と、思わず問いかけたくなるような内容だ。
 「澤井君。君、職場に着ていく洋服とかは持っているのか?」 
 「―――いえ。それをどうしようかと。」
 ここは正直に答えておく。
 「会長が、『戦闘服がないと困るから』と社長夫人に話したそうだ。」
 そう言い切ると、綾奈が手にしている社長夫人の写真をそのまま綾奈に押し付ける。
 「明日、社長夫人が来られたら返しておいてくれないか?」
 心底困った様子の黒川に、ちょっと同情を覚えてしまった綾奈であった。

 その、社長夫人がインタ―フォンモニター越しに綾奈に微笑んでいた。
 「あ、すみませんっ。すぐ下に降ります。」
 社長夫人という人がどんな人なのかはかなり不安ではあるが、黒川の指摘通り着ていく洋服には本当に頭を抱えているのだ。
 ―――それこそ、困りすぎて弟二人に相談してしまうほどに。
 綾奈としては、『背に腹は代えられぬ』な気分だ。たとえ社長夫人がどういう人であれ、綾奈の為に時間を割いてくれるというのだ。ありがたい限りである。
 昨日までの引越しの手伝いでまだ疲れているのか、和室の新しい布団にくるまって眠っている諒一と叶斗には置手紙を残し、階下に降りるためのエレベーターを呼ぶ。
 (ホントに素敵なマンションだよね。)
 マンションのエントランスを見ながらしみじみ思ってしまう。この吹き抜けのエントランスを見ただけでも、今までの綾奈の生活とはかけ離れている気がしてならない。
 「これで『社宅』なんだもんね。」
 不動産にも手を伸ばしている滝野財閥とはいえ、一社員にこんな素敵なマンションを用意できるところに財力を感じてしまう。
 
 チン。
 軽い音とともに目の前のエレベーターの扉が開いた。
 「っえ…。」
 乗り込もうとする綾奈の耳に、ちょっとびっくりしたような男性の声が聞こえた。
 (あれ?)
 その声は、聴きなれた声で。でも本当に久しぶりで。
 「澤井さん?」
 「龍野さん!!」
 声に出してお互いの名前を呼んだのはほぼ同時だった。雅也の方は心底びっくりしたような声で、綾奈はちょっとおかしかった。
 (なんでびっくりされるのかな?―――って、それはそっか。ここ、滝野コーポレーションの社宅だもんね。)
 少し考えたら分かることだ。雅也は滝野コーポレーションの社員だ。初めて会った時も今も。それに引き替え綾奈の方は、雅也と初めて会ったときは『掃除のお姉さん』だったのだ。このマンションにいることを雅也が驚くのも無理はない。
 「お久しぶりです、龍野さん。」
 「うん。それより何でここに?」
 「あ、え〜っと…。実はこの度滝野コーポレーションの社員になることになったんです。それで、この社宅に引っ越してきたんですよ。」
 ごく簡単に綾奈は説明する。驚く雅也に綾奈の方はそれ以上説明する時間の余裕はない。なんと言っても1階に人を待たせているのだ。
 「すみません。ちょっと急ぐので…。龍野さんもこの社宅なんですよね?」
 「あぁ。805号室。―――それより急いでるんだよね。んじゃ、今度時間が取れた時に。同じ会社の同僚になったみたいだし。」
 綾奈は軽く頷くと、エレベーターの1階のボタンを押す。扉が閉まるまで雅也がその場にいてくれたことに何故か心が浮き立った。