「すまないねぇ。仕事中に呼び出したりして。」
 そう言って口火をきったのはこの部屋の主である滝野毅だ。
 「いえ。店長の許しも出ましたし、それはいいんですけど…。」
 胡散臭そうに言葉を返す綾奈に毅は満足そうに頷いた。
 「私は滝野毅といって、この滝野財閥の一応、会長をさせてもらってる。君は澤井綾奈さんだね?実は、君に折り入ってお願いがあってね。」
 「お願い、ですか?」
 (滝野財閥の会長が?この私に??)
 その問いが顔に出ていたかのように毅はにかっと笑って見せた。
 「そう。実は、先日私付きの秘書が寿退社してね。」
 (それが、私と何か関係があるっていうの?!)
 そんなことが頭をよぎる。普通に考えてこんな大きな会社の特に会長付きの秘書の退社と綾奈のような一般人とはどう考えても結びつくわけがない。
 「―――ははっ。君は何でも顔に出るみたいだな。『自分とはまるで関係ない』と思っていることがそのまま顔に出ているぞ。」
 「えぇ。素直なだけが取り柄ですから。」
 「うんうん。そうだね。素直な事は本当にいいことだ。人間の美徳の一つだよ。私くらいの年になると中々素直に自分の気持ちを表すのは難しい。周りも段々そうなってくる。私の周りはほんの一握りを除いて自分の利害関係で仮面をかぶっているものが多い。まぁ、それが決して悪いことだとは思わんがね。」
 毅は一人悦に入っているように頷いている。
 「まぁ、それは置いといて。お願いというのは、退社した彼女の代わりに私の秘書になってくれないかと思ってね。」
 はい?なんですと??
 「…あの、もう一度おっしゃっていただけますか?」
 話が突然とんでもない方向に行っているようで、綾奈はもう一度問いかけた。
 「君に私付きの秘書をしてもらいたいと思っていると言ってるんだよ。給料は大学卒業生の入社1年目と同じくらいしか初めのうちは出せないがね。」
 それだって、綾奈が1ヶ月稼ぐ給料を軽く上回るだろう。
 「給料面は後は夏・冬のボーナスと決算賞与くらいだな。―――だが、そう悪い話ではないはずだが?」
 悪いどころではない。最近特にすぐ下の弟諒一が家計を心配して、大学進学を諦めて『働きたい』言いだしたくらいだ。1ヶ月の給料が上がる上にボーナスが出るとなると諒一がもしかしたら大学進学を考え直してくれるかもしれないとも思う。…だが、
 「一つお伺いしてもいいですか?」
 「何だね?聞きたいことがあるならちゃんと初めに聞いておく。これも社会人にとっては大切なことだ。」
 「はい。何故、そんな高待遇で私を迎えようということになったんですか?それも滝野財閥の会長がこんな見ず知らずの一般人の私のことを。『あしながおじさん』運動でもされてらっしゃるんですか?」
 聞きようによってはかなり無礼な言い方かもしれない。だが、こんな降ってわいたようなうまい話には必ずウラがあるとしか思えない。
 「『あしながおじさん』運動か。上手いこと言うね。でも、そうだね。不思議に思っても仕方がないかもしれない。だが、これは私にとっては慈善事業とかでは全くないんだよ。―――そして、君に白羽の矢が立ったのも全くの偶然でもない。」
 「では、理由を教えてくださいますか?」
 毅はしばらく眉間に指を当てたまま、考えるようなそぶりを見せる。
 「今君が『一般人』といったけど、まさにその感覚を持っている人が近くにいてほしくてね。」
 「それは、私でなければいけない理由ではないと思いますが…。」
 その言葉に毅はにっこりと笑って見せた。
 「そうだね。言うなれば『将来への投資』かな?」
 何故、そこで疑問形?
 っていうか、将来への投資って何??
 そう思わないでもないが、そこは敢えて突っ込まないでおこうと思う綾奈だった。
 「ただし、さっきも言ったがこれは全くの慈善事業とかではないんだよ。」
 そら来た、とそう思った。
 「君には今住んでいる家を離れてマンションに移ってもらいたい。」
 顔の前で両手を組み、毅はそこに自分の顎を乗せた。
 「―――愛人になれ、とおっしゃるんですか?」
 嫌悪感を露わに問いかける。そういう生き方をしている人がいるのは知っているし、それを真っ向から否定するほど真っ白な人間ではないが、綾奈はそういう関係になるつもりなど全くと言っていいほどない。
 「え?あ、違う違う。私は「愛妻家」だからね。奥さん以外ははっきり言ってどうでもいいって思ってるよ。―――後は、長男の嫁もなかなかいい子でね。」
 そのまま自分の家族の女性がどれだけ素晴らしいか、を30分ほど披露してくれた。
 コホン。
 今まで、綾奈の一歩後ろで成り行きを見ていた黒川の咳ばらいが聞こえてきた。そこで初めて綾奈は黒川の存在を思い出した。
 (そうだった。二人きりじゃなかったんだ。)
 それまで空気に徹していた黒川だが、話が余りにも違う方向に進んでいるのを見かねたのか、声をかけてきた。
 「会長、話が逸れてらっしゃいます。」
 「おっと、そうだった。マンションに移ってもらいたいっていうのは、私の秘書になるとやはり帰りが遅くなる事が多くなるし、終電がなくなってしまうかもしれないんだ。そこで、社宅であるマンションに引っ越してもらいたいんだよ。ちょうど後ろにいてる黒川君も同じ社宅に住んでいるからね。帰りも気にせずに仕事に励んでもらえるってわけだ。勿論、社宅に入ってもらうのはこちらの都合だから、家賃はいらない。あ、管理費・共益費・光熱費等々はいただくことになるけどね。―――どうだい?悪い話ではないだろう?」
 「はぁ…。」
 悪いどころか、こんな高条件の職場なんてそうそうないだろう。っていうか、全くないと言ってもいい。

 それから1時間半の話し合いの末、毅に半ば押し切られるようにして、綾奈の滝野コーポレーションの入社が正式に決まったのだった。
 

               *       *       *      *      *


 「え?じゃぁ、その話を受けてきたっていうのか?」
 「なんか、胡散臭げだよ、それ。」
 滝野コーポレーションへの就職が決まった事とその一部始終を弟二人に話した時の反応は二人とも似たり寄ったりだった。
 因みに先に言葉を発したのは長男の諒一、高校3年生。後に発したのは叶斗、高校2年生だ。
 「「怪しすぎるよ…。」」
 呆れ顔の二人の言葉が重なった。
 「分かってるわよ。でも、こんなに条件のいい話ってないし…。」
 「何か裏があるに決まってるだろ!!」
 「とにかく、もう受けちゃったわけなんだろ?」
 「そうよ。それに、あんな大企業の会長さんなんだもの。変なことはないわよ。」
 (大企業の会長が姉貴に目をつけたことからしておかしいから。)
 そう言いたい叶斗だが、綾奈が一度決めたら周りの話など全く聞かないことは百も承知だ。
 「分かったよ。―――ただし、何かあったらすぐに俺たちに相談すること。いくら年下で弟だからって頼りにならないなんて考えないでね。」
 「かっ、叶斗!!お前、この話に賛成なのか?」
 「姉貴は一度決めたら絶対にその決定を覆さないじゃないか。短大を辞めたのだって結局反対しても無駄だったんだから。」
 そういうと、綾奈の作った晩御飯を口の中に掻き込んだ。
 「それで、俺たちはいつ引っ越せばいいわけ?」
 そっちの方が問題だと叶斗がいう。引越しの準備とかあるわけのだから、当然といえば当然の問いだろう。
 「あ、諒一と叶斗は、引っ越さないのよ。」
 「は?」
 「え?」
 二人のリズミカルに動いていた手が、止まった。
 「だから、引っ越すのは私だけ。―――だって、あんたたち学校があるじゃない。」
 このアパートと綾奈が引っ越すことになる社宅は駅でいえば各駅で7駅ほどしか離れていないのだが、学区が違うのだ。
 「そんな、学区のことなら、学校に言ったらなんとかしてくれるだろ?」
 「最悪、転校するしさっ」
 そんな二人に綾奈は大きく顔を左右に振る。
 「これは、私が勝手に決めた就職先と社宅の話でしょ。諒一と叶斗に迷惑をかけられないわよ。…それに、『一人で引っ越してくること』も条件に含まれてるのよ。」
 ((ますます、怪しいじゃないか))
 そう言いたいのだが、綾奈が決めてしまったということが問題だ。綾奈が決めた=覆らないのだから。
 「分かった。じゃぁ、せめて休みの日に泊まりに行くことくらいはできるんだよね?」
 全く理解できないというムッとしたままの諒一とは逆に、溜息を吐きつつ綾奈に問うたのは叶斗だ。
 「あ、うん。それは大丈夫よ。引っ越すときに二人の泊まる布団も買わなきゃ、だね。」
 「―――携帯。」
 「え?」
 「携帯も、だよ。そんな誰が隣に住んでいるかわからないところに一人で住むんだから、携帯は持っててもらわないと不安で仕方がない。」
 諒一の言葉に叶斗も大きく頷いた。
 「そうだね。それに家族割にしておけば通話料もかからないわけだし。」
 「携帯なんて、そんな物いらないわよ。今までだって使わなかったんだし…。」
 そう言い切る綾奈に二人は断固として反対する。
 「携帯を持たないなら、その就職先も引越しの話も反対するぞ。」
 「姉貴、俺たちは結構今回の話には譲歩をみせてるでしょ?だからそれくらいはのんでくれなきゃ。携帯を持つか、それとも兄貴の言うとおり就職を辞めるかどちらかだよ。」
 普段物腰の柔らかい叶斗がいやにきっぱりと言い切った。実は綾奈にとって今回の就職の話はすごくありがたかったのである。諒一と叶斗がこれから進学していく上で綾奈に定職があるのとないのとでは、彼らを説得するときに大きな違いが出てくるだろうと思っているのだ。
 そういう意味でも、今回の滝野コーポレーションからの誘いを断るという選択肢は綾奈の中には存在していない。ということは、結果は自ずと導き出される。
 「分かったわよ。携帯は買うわ。それで、文句はないでしょ?」
 しぶしぶ承諾の意を伝えた綾奈だが、実はちょっと嬉しかったりもする。携帯はそんなに必要だとは思わないが、自分のことを心底心配してくれている二人の気持ちが本当に嬉しいだの。
 (それに、家族割があるので気兼ねなく二人と電話ができるようになるのも心強いかも)
 2年前。突然両親が他界し三人家族になった。両親は駆け落ち婚で他に親戚もいない。いや、いるのかもしれないが、絶縁状態なのでどこにどんな親戚がいるのかさえ知らないのだ。三人、肩を寄せ合って生きてきた。だが今回、自分で決めたこととはいえ弟たちから離れなければならない事に少なからず不安があった。
 だからこそ、諒一の言葉が本当に嬉しい。
 「で、いつ引っ越すの?」
 こんな時、口火を切るのは決まって末っ子の叶斗だ。
 「うん。来週の金土。」
 「来週?!」
 そう聞き返すのは諒一。
 「余りにも急な話だね。」
 冷静に問うのは、やはり叶斗だった。
 「まぁ、そうだけど。でも、決定事項だから。」
 反対なんて聞かないという意志の強い目で二人を睨みつける綾奈に、諒一と叶斗はそっと溜息をつく。
 「今週、買い物に付き合うから。」
 「それと、携帯の購入は絶対だからな。」
 もうあきらめムードである。

 かくして、綾奈の引越しと就職は澤井家では決定事項となる。勿論、週末には当然諒一と叶斗のお泊りが決定事項であることもここに書き加えておこう。