逃げられたか…。

 営業一課のフロアから去っていった綾奈の背中を見送りつつ、雅也は心の中でそっと呟いた。

 (澤井さんのことが気になり始めたのはいつのころからだろうか?)
 そう自分の内に問いかけてみる。
 正直『分からない』というのがその答えだった。
 小さい頃から自分を着飾ったり、おべっかばかり遣う人たちの中で育ってきた。高校生になり、大学生になり、年相応の同級生たちが身の丈にあわない衣服を身に着けるようになると、彼女たちにも嫌悪を覚えた。多分、彼女たちが変わっているわけではなかっただろう。思春期になれば誰だって異性の目を気にするし、少しでも自分が綺麗でありたい。そう願うものだ。
 だが、その年齢に達するまでに雅也は嫌というほど欲にまみれた人間の裏側を見てきてしまったのだ。
 
 (―――だから、かな?)
 自分を着飾ろうとはせず、二人の弟の為に献身的に仕事をする綾奈を眩しいと思うと同時に『手に入れたい』とも思うのだ。
 そんな『自分分析』をしてみてから、自嘲する。
 (もう俺にはそんな時間なんて残されてはいないのに。)
 大きな息を吐いて、雅也は綾奈のことを頭の中から閉め出すことにする。
 
 もう、会うことは二度とないだろうが、それでも綾奈と同じ空間にいれた今日を感謝するのだった。


              *       *       *      *      *


 「確かなのかい?」
 そう問いかけた主は、先ほど速水が提出した資料から視線を上げずに問いかけた。
 「―――私の資料をお疑いですか?」
 ややムッとした返答をする速水に、「おや?」というように毅―――滝野財閥会長滝野毅は視線を合わせる。
 「そうは言ってないさ。だが、我が次男坊がねぇ…。速水君、君だって驚いたはずだろう?」
 「まぁ。それはそうなんですが…。でも、確かですよ、この情報は。」
 毅の言葉に速水は苦笑を返した。
 「で、君の目から見てどうなんだ?」
 「そうですね。―――近所の評判は、家族を含めて上々ですね。今は仕事に追われて男の気配は皆無。両親を一度に失っていますから今は彼女が大黒柱らしく、一生懸命家族を支えているっていうのが印象的ですね。」
 立て板に水のごとくすらすらと言葉を羅列する速水の一言が毅のアンテナにひっかかった。
 「『今は』男の気配は皆無、なのか?」
 言外に昔は?と問いかける。
 「少し前までは、ウチの営業一課で顔を会わせていた男がいたくらいです。」
 「あぁ、彼ね。」
 速水の言葉に小さく頷きながら、もう一度資料を見直す。
 「彼くらいかな?―――では、問題なしって事で次の行動に移るとしよう。」
 満足げな毅の顔は、どこか策士に見えるなぁといやに緊迫感のない感想を速水は覚えた。勿論、毅にそれとわからないくらいには無表情のままで。

 

 「あの、もう一度おっしゃっていただけますか?」
 昼。
 いつもならコンビニでバイトをしているはずの綾奈が何故か夜のバイト先である滝野コーポレーションの10階、しかもこの滝野財閥会長の部屋にいるのだ。

 いつものように諒一と叶斗、二人の弟を送り出しコンビニでバイトを始めて1時間ばかり経ったころだった。一人のいやに身なりのいい男性が本当にコンビニにやってきたのだ。
 その時は綾奈も
 (なんか、コンビニに来る客には見えないよね。)
などと、友達の千春と小声で話していた。しかも、何を買うんだろうとばれない様に伺ってさえいたのだ。
 (だって、その時は他人事だったんだもの!!)
 本当に何しに来たんだろう?って感じだったのだ。彼が名指しで綾奈を指名するまでは。
 「『澤井綾奈さん』ですね?」
 その言葉は疑問形ではあったが、彼女と確信している口ぶりだ。一瞬、「違います」と言ってやろうかと思った綾奈だが、左の胸元にはしっかりと『澤井』の名札をつけている。
 「そうですが…。どういったご用件ですか?」
 不審者を見るように相手を睨みつける綾奈に男は憮然としたまま名刺を差し出した。
 「私は黒川といいます。」
 名刺には『滝野コーポレーション秘書課主任 黒川 圭吾』と書かれていた。
 「『滝野コーポレーション』?」
 滝野コーポレーションといえば、綾奈が毎晩掃除に行っているオフィスビルだ。
 (昨日、私何かやらかした?!)
 すぐにそんなことが頭によぎり、一生懸命昨日の一連の仕事を思い出す。だが、いつもと違っていたのは毎晩残業をしていた龍野雅也に会わなかったことくらいだ。後はいつもと変わらない一日だったはずだ。
 名刺を見て青ざめる綾奈に黒川の方は苦笑を返す。
 「特にあなたが何かをやらかした、というわけではありません。」
 「では一体…。」
 「実は、少々あなたにお会いして話をしたいという人がいまして。宜しかったら今からお時間をいただけないかと思い伺った次第です。」
 「今から、ですか?」
 「えぇ。『今から』です。」
 きっぱりと言いきる黒川に綾奈はつんと顔をそむける。
 「ご覧のとおり、私は今、仕事中です。お急ぎの用事でないのなら時間が終わるまでお待ちいただけると嬉しいのですが。」
 上手に出られて黙っていられる綾奈ではない。しかも自分に非がないうえにこれからもあまり関わり合いにならないだろう相手だ。その相手がどんな大企業のお偉いさんかは知らないが、こんな風にいきなり人の仕事中にやってきて自分の主張を通そうとするのは、綾奈の気質上我慢できない。
 「さっ、澤井さんっっ。今日はもう上がってもいいから…。」
 奥の倉庫で商品のチェックをしていた店長が話を聞きつけたのか、裏のバックヤードから急いで店に出てきた。
 「しかし、店長っ。」
 「本当にここは大丈夫だから。それに今日はちゃんと定時までいてくれたことにしておくから。―――すみませんっ、すぐに行かせますから。」
 半ば急き立てられるようにして綾奈はコンビニを後にした。
 
 そして黒川の案内で通されたのが、滝野コーポレーションのオフィスビル10階の会長室だ。