「そっか。ちょっと無理だったか。」
 「そうなんです。諒一も私も頑固なところがあるからから。」
 こんな家庭の悩みを打ち明けられるようになったのはいつからだろう。本来綾奈は人に弱みをみせたり、プライベートまで話をしたりすることなどまずはない。
 きっかけは忘れたが、それでも、雅也に話を聞いてもらうだけで綾奈の心は少しだけど軽くなる。
 「どちらの言い分が正しいのかは俺には分からないけど、目標があるなら大学にいって勉強すべきだと思うよ。勉強出来る時間はそうはないからね。特に社会人になってから勉強することは、かなりの意思がないと続けられない。」
 マジメに語る雅也に、綾奈は思わず噴出してしまう。
 「―――何を笑っているのかな?」
 「だ、だって。龍野さんがすごく真面目なことを言うんだものっ。」
  「そりゃたまには、大真面目で話をすることもあるさ、俺でも。えっと、諒一君だっけ?大学に行くか行かないかは本当に一生を左右するようなことになるから、もう一度ちゃんと話し合うべきだと思うよ。」
 「えぇ。また少し時間をおいて話そうとは思っているんです。まだ四月だし。」
 「『もう』四月だよ。大学受験までそんなに時間があるわけじゃないし、就職をするとしたら早め早めに動かないとね。」
 片目をつぶって見せる雅也に綾奈は大きく頷いた。
 「ありがとうございます。明日にでもまた話をしてみます。…それより龍野さんはまだ仕事ですか?」
 そうなら、営業一課のフロアは一番最後に掃除をしないとと思いつつ問いかけると、雅也はすまなそうに片手で綾奈を拝む。
 「あぁ。実は転属になって、今日中にこの仕事を終わらさなければならなくなってしまってね。」
 「え?そうなんですか。」
 「そうなんだよ。来週から違う課に移動になってしまった。」
 大きなため息と共に吐き出された言葉に綾奈は少し残念に思う。
 (せっかく少しずつ話が出来るようになったのにな。)
 雅也の残業しているこの時間を少し楽しみにしていたのだ。本当なら会うことのない人だと思う。『滝野コーポレーション』という大企業の営業一課でなかなかの成績を収めているのだと、毎月貼り出される営業成績表に記されているような人なのだ。
 この仕事を始めた頃には、
 (どんな人だろう?)
 掃除をしながらそんなことを考えていた。もしかしたら、何でも上から目線で話す人かもしれない。或いは、おべっかばかりが上手な人かもしれない。いろんな想像をしていた。だがこんなに気さくに話してくれる、相談に乗ってくれるような人だとは想像してはいなかった。
 
 「…しい?」
 どれくらいの時間だろう。そんなに長い時間ではないように思うがぼーっとしていたのだろう。気が付いたら綾奈の目の前で雅也が手をかざしている。
 「え?」
 「俺がこのフロアからいなくなるのを、少しは寂しく思ってくれているのかなって聞いたんだけど?」
 どきっとした。
 心の中が見透かされているような気がして。
 「え、えぇ。勿論、寂しく思いますよ。…だって、色々と相談にのってくれる頼れるお兄さんがいなくなるんですから。」
 それは真実。だけど、それは事実の半分しか示していないけれども。
 「そっか。澤井さんにとっては、俺は『頼れるお兄さん』って位置にいるんだ?」
 確認するように覗きこむ雅也に綾奈は一歩、後退する。
 「あれ?なんで下がるのかな?」 
 「えっと…。別に意味はないですよ?」
 「もしかして、警戒されてたりする?」
 少し傷ついたような雅也に綾奈は顔を赤らめた。。
 「そんなことはないです。」
 きっぱりと言い切る。綾奈が一歩後退をしたのは、雅也が指摘したような理由ではない。ただ、顔が近すぎて恥ずかしかったのだ。
 「そ?まぁ、いいけど…。」
 「龍野さん。私違うフロアから掃除しますからっ。」
 綾奈はそれだけ告げるとそそくさと営業一課のフロアを後にした。



 ―――もう会うことなど二度とないと、そう思っていた。