夜の10時。
 澤井綾奈はいつもの様に掃除道具を持って10階建てのオフィスビル『滝野コーポレーション』を見上げた。そして、いつもの様に6階の一角に明かりがついているのを確認する。
 「今日も頑張ってるんだ、龍野さんは…。」
 会えるのが嬉しいけど、でも毎日のように残業をしている龍野―――龍野雅也の体のことがちょっと心配になる。
 「営業課って大変なんだろうなぁ。」
 そんな言葉を吐きつつ、裏門をくぐってビルの中に入っていった。

 
              *       *       *      *      *


 綾奈の掃除の受け持つのは6階から4階までのフロアだ。たかだか3フロアだと侮ってはいけない。滝野コーポレーションのオフィスビルはそれ自体が大きなビルで、どうしたって掃除に2時間以上はかかる。
 短大中退の綾奈は昼は家の近くのコンビニでバイトし、家で夕食を済ませてから電車で30分離れたこのオフィスビルで掃除婦をしている。
 父母が亡くなったのは今から2年前、綾奈が19歳の時だった。
 下に弟二人がいたために、綾奈は短大を中退し今の仕事についたのである。
 弟二人には、『短大を卒業してから就職をしたほうがいい』、『こんな風に昼夜とバイトを二つ掛け持ちするなんて絶対に身体を壊す』などなど反対にはあったのだが、元来頑固な綾奈は二人の意見など聞き入れず、さっさと短大に退学届けを出し、働き始めたのだ。
 いつもの様に滝野コーポレーションのオフィスビルの掃除に来た綾奈が6階で仕事をしている雅也と出くわしたのはちょっとした偶然だった。
 その日。雅也の担当をしている企業から『明日中に資料を提出してくれ』と連絡が入り、急遽残業をすることになったのだという。
 休憩をとる暇もなく一心不乱に仕事をしている雅也に、一通り掃除を終えた綾奈が自動販売機で買った温かいコーヒーを彼の目の前に差し出したのが二人の知り合ったきっかけだった。 
 

 「今日も残業ですか?」
 綾奈はいつも6階のフロアから掃除を始める。上から下へ。これが綾奈の掃除の信条で、どうしたって雅也のいる6階が早めの時間に掃除をしてしまうことになる。
 「あぁ。澤井さん。今日もお疲れ様。」
 その声に雅也は今まで視線を落としていた資料から、綾奈へと視線を移す。
 「お疲れ様です。―――あまり根を詰めて仕事をしていると身体に良くないですよ?」
 ちょっとおせっかいかと思いつつもそんな言葉が口をついて出てくる。
 「ありがとう。でも、どうしても今日中にこの資料に目を通しておかないといけなくてね。…それより、澤井さんの例の悩みは解決した?」
 少し心配そうに聞いてくる雅也に綾奈は苦笑を返す。
 「・・・いえ。その事で今日は諒一の担任の先生に呼ばれてしまいました。」
 綾奈の目下の悩み事。それはすぐ下の弟、諒一の進路についてだ。綾奈の弟諒一は、現在高校三年生。県下でも有数の公立の進学校に通っており、しかも勉強がよく出来る。試験を受ければ校内でも5位以内の位置を常にキープし、このままいけば国立大学にもストレートで合格間違いなしと太鼓判を押されるほどの頭脳の持ち主だったりする。その弟が大学には行かずに就職をすると言い出したのは高校二年の終わりごろだった。
 それまでは諒一の周囲は綾奈をはじめとして当然大学進学をすると思っていたので大慌てである。
 
 今日も今日とて、諒一の担任に呼び出しをくらったのだ。
 「お姉さんからも説得してください。澤井君の成績だったら、国公立の大学に行くのだって十分なんですよ?奨学金だって受けれる可能性が高いんです。お家の事情もお察ししますが、このまま大学に行かないのは彼にとっては将来、大きなマイナスになるんですよ。」
 少しキツイ口調で話すのは、諒一を三年間見てきた担任だった。
 本来はこんなキツイしゃべり方をする教師ではないだけに、綾奈の心にずしりと響く。
 それで、諒一と帰宅後、言い合いになったのだ。
 「どうして大学に行かないなんていうのよ?!大学に行くにはここの学校がいいって言って今の学校にを選んだんでしょ!!」
 「その時は親父もお袋もまだいたからね。今は少しでも早く働きたいって思ってるんだよ。」
 「何を言っているの?あんなに『大きくなったら医者になるんだ』って言ってすごく頑張ってきたじゃない!!…それに、今までお父さんとお母さんの保険金には手をつけていないんだし、お金がないわけじゃないのよ!!」
 「それでも姉貴は俺たちの為に短大を中退して働いているんだ。それってつまり、親父やお袋の保険金を使わないために姉貴が俺たちの犠牲になってるってことじゃないか。あと、一年もすれば幼児教育資格取得できて、晴れて幼稚園教諭になれるところだったのにさ。」
 「私は諒一、あなたや叶斗のために犠牲になってるなんて思ってないわ。―――そんなに幼稚園教諭になりたかったわけじゃないもの。取れるんなら取ろうかなっていうくらいしか考えてなかったのよ。」
 ―――嘘である。諒一の指摘どおり、綾奈は幼児教育資格取得をとり、いずれは幼稚園教諭になるのが夢だったのだ。だが、父母の死でそれを諦めたのだ。
 そして、その夢を、『なりたい夢を叶える』夢を弟の諒一と叶斗に託すことにしたのだ。
 三人ともが夢を追いかけることが出来るほど、澤井家の財政は潤ってはいなかったのだから。

 だからいつも堂々巡り。
 諒一の言っていることが間違っていないことが綾奈がこの件で強く出れない一つの要因であった。