「美味しいよ、穂乃香。」
 帰宅直後に穂乃香からの『お帰りなさい。ただ今帰ったよ』儀式が一段楽した後の事だった。
 「本当?」
 「あぁ。穂乃香の料理は本当に美味しいな。」
 
 ただそれだけの会話。
 だけど、それは穂乃香にとってこれ以上ないくらい嬉しいのだった。
 こんなふとした瞬間にも暁に愛されているって思えるから…。


 (毎回穂乃香を呼んで、鍵を渡して先に部屋に行くように言うわけでしょ?だったら何で穂乃香に合鍵、渡さないのよ?)
 昼間。
 真紀と交わした会話が頭の中をよぎる。
 真紀に指摘される前までは全然気がつかなかったのだが、一度そう指摘を受けると、穂乃香の方も気になってしまう。
 (―――ちょうだいって言ったらくれるのかな…。)
 穂乃香はそう自分に問いかけた。
 (やっぱりくれないかも…。)
 上目遣いに暁の方を見上げた。
 静かな飄々とした表情で自分の手料理を平らげてくれる暁。だが、記憶がある限りでは一度も抱いてくれたこともない。
 (くれない、よね?)
 確信があるわけではない。
 ただ、なんとなくそう思うのだ。
 ―――だって、もしくれる気ならもっと早めに渡してくれていると思うもん。
 そう思うと、なんだかさびしくなってくる。
 「―――穂乃香?」
 「え?」
 「『え?』じゃない。何かいいたいことでもあるのか?」
 その暁の言葉に。穂乃香は大きく首を振る。
 (やっぱり、こんなこと言えないもん。私からこんな事、やっぱり言えないよ〜っ。いくらなんでも図々しいもんっ。)
 ちょっと意気消沈する。
 自分からこのマンションの鍵がほしいとは言えない穂乃香だった。
 「別に…。」
 「『別に』って顔じゃないようだけど?―――何かあったのか?」
 怪訝そうな暁の声に、穂乃香はちょっと間をおいてから返事をする。
 「ううん。」
 少し後ろめたそうな顔。
 それが、暁の心に小さな疑いを作る。
 
 「へぇ?何もないのにそんな顔をするのか?穂乃香は。」
 口元には不気味なほど落ち着いた笑みが浮かんでいた。だが、笑っているのに瞳にその笑みはなかった。
 「穂乃香?俺に隠し事をしているという事は、俺に言えないような事があったんだよね?」
 「え?」
 「今日、誰か男性社員から何か言われたりしたのか?」
 「な、何を?」
 「へぇ、とぼけるのか?―――今日、藤原と楽しそうにしゃべっていたじゃないか?」
 今日の就業後のことを言っているのだろう。
 それだけは理解できる。
 ―――何と言っても当の暁に怒られたのだから…。
 だが。
 こんな時に藤原の名前が出てくるとは思っていなかった穂乃香は驚いたように視線を上げた。
 「藤原君?」
 「何を吃驚しているんだ?藤原に何か言われたんだろ?」
 「別に何も言われてないもん!!」
 「じゃぁ、何であんなふうに楽しそうにしゃべっていたんだ?」
 暁の声がいつもよりずっと冷ややかに響く。
 「知らないわ。何か話したいことがあるって言われたけど…。」
 「話したいこと?」
 「う、うん…。でも、あの時はちゃんと断ったもん!!」
 「ホントに?」
 「何もなかったわ。だって今日はここに来る約束をしてたんだもん。話はまた今度って事になったわ。」
 「へぇ?ここに来る約束をしてなかったらのこのこと藤原の後をついていっていたって訳だ?」
 微笑を浮かべ、暁はテーブルを回り込んで穂乃香の顎をそっと持ち上げる。
 「な、何を…。」
 「決まってるじゃないか?俺に隠し事をするその悪い唇をふさいでしまうんだよ?」
 「隠し事、な―――っ。」
 暁は穂乃香の唇に自分のそれを重ねた。
 「―――んっ?!」
 いつもは啄ばむような優しいキスや、少々強引だがそれでも、愛情を感じられるような甘い口付けだった。
 だが、今回は違う。
 今までのようなのではなく、男が女を屈服させようと言う征服欲だけのものだった。
 愛情なんて欠片もない。
 それが穂乃香にもありありと分かってしまった。
 「やっ。―――らさっ・・・。」
 暁のキスから逃れようともがく穂乃香に、暁は顎を持ち上げていた手をそのまま穂乃香の体に回した。
 「!!」
 左手は穂乃香の体を自分に押し付けたまま、暁の利き腕が強引に穂乃香の胸元をまさぐる。
 それは征服欲とエゴに満ち溢れた行為で、今までの意地悪だがそれが穂乃香への愛情の裏返しなのだと、いつもどこかで感じていた暁の愛撫とは天と地ほどの差があった。
 「やっ。やだっ。暁さん!!」
 唇が穂乃香の口に含みきれなかった唾液を追うようにやや下へと降りていく。そしてその首筋にきつく。自分の所有であると言う証を散らせた。
 「やっ。やめて!!」
 抗っても抗っても一向に止めるどころかますます激しくなる暁の行動に、穂乃香はどうしたらいいのかも良く分からなかった。
 ただ分かっているのはいつもの暁とはかなり様子が違うことと、これが穂乃香にとって受け入れがたい事実だと言うこと。ただ、それだけだった。
 「やだっ。やだっ!!止めてっっ!!」
 穂乃香は暁の手から少しでも遠ざかろうとどんどん後退していく…。
 「きゃっ。」
 バタン。
 穂乃香の足がリビングのソファに躓いた。そのままソファに倒れこむ穂乃香の様子に躊躇することなく暁の手は先を急ぐ。暁の手が穂乃香の背中に回ってブラのホックを外す。
 「嫌だってばっ。」
 もがく穂乃香に、暁はさらに押さえつけるように体を穂乃香の細い体躯の上にのしかかる。

 ぱしん。
 暁の頬を打つ大きな音が、静寂した空間に響いた。
 乾いたその音は一人暴走をしようとした暁に一瞬の隙を作る。
 「―――のか・・・。」
 ハッとしたように、穂乃香の体をまさぐっていた暁の手が瞬時に動きを止めた。
 穂乃香の目に、呆然としている暁の表情が焼きつく。さっきまでの鬼気迫ったような暁の表情ではなかった。
 (―――でも、怖いっ。)
 いままで見ていた暁とは全く違った先ほどの暁の様子に、穂乃香は恐怖を感じてしまう。
 これまでずっと穂乃香の歩調に合わせるようにゆっくりと歩んできただけに、突然の暁の変貌に穂乃香はショックだった。
 ―――分からない・・・っ。
 その言葉しか思いつかない。
 今まで大切にしてきてくれた暁とはまるっきり違う様子。
 (こんなの、暁さんじゃない!!)
 確かに少々強引に穂乃香に迫る事はあったが、どんな時でもその瞳には優しく、穂乃香への愛情が映っていた。こんな蹂躙するような、穂乃香を欲望の対象とのみみなした瞳で見つめることなどかつてなかった。
 ―――そう。まるで、一夜限りの行きずりの相手のように…。
 「―――るっ。」
 穂乃香はそう呟くと、コートとバッグを引っつかんで暁のマンションから飛び出した。
 暁がどう思っているのかは分からないが、とりあえずこの場から逃げ出したかった。こんな風に普通じゃない暁と二人きりでいられるほどの強さは穂乃香にはない。
 「穂乃香?!」
 我に返った暁は一瞬、穂乃香の後を追おうと声をかける。
 だがその言葉に振り向くことなく、一目散に逃げていく穂乃香。

 そのまるで怯えるように逃げていく穂乃香を暁は追いかけることが出来なかった。
 

 ―――穂乃香の心を映すように、外は真っ白な雪が降っていた。
 素敵なホワイトクリスマスを過ごすはずの週末は、暁と穂乃香の間にどこまでも白い道を作るだけだった…。

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