「―――なんて事をしてしまったんだ…。」
暁は自分を突き飛ばし、マンションを出て行った穂乃香の後を追うことが出来ずに、半ば呆然とリビングに立ちすくんでいた。
穂乃香が帰宅する直前。何気なく穂乃香を見つめていた暁の瞳に映った出来事が、穂乃香の手料理を食べていてもどうしてもちらついていたのだ。
穂乃香の同期の藤原忍。
暁が穂乃香と恋人関係になるずっと前から、それこそ穂乃香が暁を「胡散臭い」と思っていた時からずっと穂乃香のすぐそばにいた男性だ。
藤原が穂乃香のことをどう思っているかというのは周知の事実で、気がついていないのははっきり言って穂乃香ぐらいだろう。
その男が、自分の前で穂乃香に声をかけ、それに嬉しそうに笑っている穂乃香の姿にどうしても嫉妬を覚えずにはいられない。
―――懐の小さい男だ。
そう自分でも思う。
本当の恋人同士だったら、そんな事「なんでもない」と笑い飛ばすことが出来るだろう。
決して穂乃香を信じていないわけではない。
だが…。
(どうして藤原、なんだ…。)
そう思わずにはいられない。
あれが多分藤原ではなく他の男性社員だったらまだ暁の中に余裕があっただろう。
暁にとっては誰よりも要注意人物と見ないしている藤原だからこそ、夕方に穂乃香にやや厳しい声で注意をし、自宅に帰って穂乃香の手料理を食べると言う幸せな時でさえ、ちらついてしまうのだ。
穂乃香が入社して2年。
この2年間、ひたすら見守るしかなかった暁よりもずっと近くにいたのが藤原だった。
何かの飲み会の時。
それこそ男性社員だけで集まった時だ。
『俺、橘に告白します!!』
酒に酔って、だがどうどうと宣言した藤原の言葉が忘れられない。
その当時。
穂乃香には前の彼氏がいて、それでも想いを伝えたいという藤原になんとなく羨望に似た思いを持ったのだ。
(―――俺には出来ない。)
そう思った。
いくら好きでも、彼氏のいる女性に告白出来るほど図々しくはない。―――そう思ったのだ。
その藤原が、今穂乃香に近づいている。
十中八九。
告白するつもりだろう…。
渡すつもりはさらさらない。
でなければ、あの日。
穂乃香が前の彼氏に振られたあの日に、酔っ払ったままの穂乃香を連れて帰り、『穂乃香と寝た』などという嘘などつきはしなかった。―――あんな風に穂乃香が弱っていることをいい事に付けこむようなまねは…。
(だが…。)
ずっと後ろめたかったのだ。
こんな風に穂乃香を騙して半ば強引に付き合うようになった事に。
(どうすれば、いい?)
そう自答自問する暁だが、答えなど出ようはずがない。ただ分かることは、一刻も早く穂乃香に謝ること。ただそれだけだった。
(あと、どれくらい待てば穂乃香は自宅に着くのだろう・・・。)
携帯電話では、サブディスプレイを見て暁だと分かると、穂乃香が出ない可能性もある。それを考えると穂乃香の自宅の電話に直接かけたほうがいいような気がし、暁はリビングにある時計を見て、ひたすら時間が過ぎていくのを、待っていた…。
******
『ピンポン、ピンポン、ピンポン―――っ。』
暁のマンションからタクシーで20分にある真紀の自宅のインターフォンが激しく鳴る。
もう夜の10時だ。
約束もないのにこんな時間に尋ねてくる友人に心当たりはない真紀は、やや不思議に誰何する。
「誰?」
「―――あ、私…。」
「穂乃香?!」
その声が届いて待つこと数秒。玄関のドアが荒々しく開けられた。門の外には雪に濡れたままの穂乃香が立っていた。
「―――真紀…。」
「と、とりあえず上がりなよ。―――私の部屋で待ってて!!」
そのまま言葉を紡ごうとする穂乃香を真紀は慌てて自宅に招き入れた。濡れているから、と遠慮をする穂乃香に対し真紀のほうがやや強引に穂乃香を二階に通じる階段へと導く。
「何を言ってるの。すごく冷たい体をしているじゃない。私の部屋は暖房が入ってるからとりあえず中で待っておくのよ?!」
そういい捨てて自分は台所へと走っていた。
「お母さん、暖かいお茶を入れて!!」
そんな声がリビングの方から聞こえてくる。
(なんか、いいよね。)
社会人になってから一人暮らしをしている穂乃香にとってはなんだか懐かしい風景だった。さっきまでの悲壮な思いは少し和らぎ、心が少しだけ温かくなる。
そんなことを思いながら穂乃香は二階の突き当たりの真紀の部屋にそっと入った。
そこは高校生時代と少しも変わらない安らぎに満ちた部屋だった
それはもう当たり前すぎるくらいに通いなれた部屋。
いつもと変わらないそのぬくもりに、穂乃香は一筋の涙をこぼした。
「穂乃香、開けるわよ?」
その声と共に入ってきた真紀の手には、温かいお茶と、大きなバスタオルが握られていた。
「ま・・・き―――。」
「ほら。とりあえずお茶を飲んで?温まるわよ?」
理由もなにも聞かず。
真紀はそういって促す。
穂乃香の方も言われるがまま、お茶を飲み、服の上から水滴を吸い取った。
何もせず、真紀も穂乃香の横にそっと座る。
高校時代から何度もあった事だ。
本当に悲しい時、しんどい時は、真紀はこんな風に何も聞かずに、穂乃香にそっと寄り添うだけだ。
それだけで、穂乃香は癒されてきた。そして多分、これからも。
「―――穂乃香ちゃん、お風呂が沸いたわよ?」
穂乃香の体が少しずつ温まってきた時。
真紀の母親の声が、階下から聞こえる。
「ほら、行って来なよ。とりあえずパジャマはこれね?」
いつしか穂乃香専用に用意されたパジャマ。
ここには、穂乃香が求める全てのものが揃っている。
―――これで、来週からは頑張れる。
そんな思いが穂乃香を大きく勇気付けるのだった。
|