「橘さん。先ほど提出してくれた書類だが…。」
金曜日。
いつものように仕事をこなしていると、課長席から暁が声をかけてくる。
暁と付き合うようになって3ヶ月。
付き合い始めた頃にしていた凡ミスをする回数も以前より明らかに減ってきていた。
だから、最近ではこんな風に呼びつられることも稀になっているだけに、ちょっとびっくりしたように顔を上げた。
「あ、はい。」
穂乃香はいそいそと暁の方に急いだ。
「ほら、ここの…。」
そういいながら、書類を指すその視線の先。明らかに先ほど提出した書類よりも3回りも小さい紙を指差していた。
『今日は、先に家で待っててくれ』
そう書かれた紙と暁のマンションのキー。
穂乃香は大きく息をついた。
もう何度目でしょう。と、口に出して言いたくもなる。
「あ、すみません。僕の見間違いでした。橘さん、もう席に戻ってくださっていいですよ?」
そう言いながら、穂乃香の手のひらに分からないように先ほどの手に持っていたものを手渡した。
「はい、じゃぁ失礼します。『課長』」
思わず嫌みったらしく『課長』と言う言葉を付けて、穂乃香は席に戻る。真紀の方は意味ありげに穂乃香に向かってにっこり笑って見せた。
「で、何の用だったの?『越野課長』」
昼休み。
嬉しそうに問いかけてくる真紀に、穂乃香はちらっと視線を向ける。
「何?なんだか嬉しそうだけど?」
「だから、昼休みのちょっと前。『橘さん。先ほど提出してくれた書類だが…。』」
「あ、あれは…。」
嬉々として先ほどの暁の言葉を繰り返す真紀に、穂乃香は視線を外す。
暁が誰にも分からないように鍵を渡したのは穂乃香自身も分かってはいるのだが、後ろ暗いことがあるのでその言葉を聞くとどうしてもしどろもどろになってしまう。
「今日も渡されたんでしょ?鍵。」
「……。」
よもやここで「はい」とは言えない。
だが、返答しない=肯定であることは、真紀には明白である。
「もう何週目だっけ?毎回毎回、ご苦労様よね、課長も。」
真紀の目から見て、穂乃香と暁のやり取りはもう微笑ましいを通り越して呆れるばかりである。
(っていうより、むしろ。じれったいって感じ?!)
「―――あの、さ。穂乃香ちゃん?ずっと思ってたんだけど、なんで毎回同じことをしてるのよ、あなた達。」
「同じこと?」
「そう。毎回穂乃香を呼んで、鍵を渡して先に部屋に行くように言うわけでしょ?だったら何で穂乃香に合鍵、渡さないのよ?」
「え?」
「だって毎回毎回。決まってでしょ?金曜日に当たり前のように穂乃香を呼びつけてるじゃない?そのうち怪しまれるよ。」
呆れ気味に呟く真紀の言葉に、穂乃香はその言葉に愕然とする。
『何で穂乃香に合鍵、渡さないのよ?』
その事実に今初めて気がついた。
(―――そ、そうだわ。なんで鍵を渡してくれないんだろう?)
今まで気がつかなかったのだが、確かに真紀の指摘どおりである。
毎回毎回、見つからないようにと危ない橋を渡るくらいなら、合鍵を渡してくれている方がよっぽど良いだろう。
そうすれば、あんなふうに呼び出すこともなく、メール一本で事はすむはずだ。
(―――もしかして、暁さんって…。)
「…何か変な趣味でもあるのかしら?」
「へ?」
「きっと、そうよ。だから木曜日の夜までにそれをどこかに隠してるんだわ!!」
「………。」
さすが穂乃香である。
普通はそこで、
「他に何か疚しい―――例えば、女の人がいるのかな?とか思わないんだ?」
あまりにも天然ぶりに、真紀はそう呟いてしまう。
「他の女の人?」
不思議そうに目をきょとんとさせる穂乃香に、真紀は「ううん、別に。」と返事をする。
(前向きと言うか、天然と言うか…。)
いずれにせよ、穂乃香が気にしていないのであれば、そんなこともないだろう。
しかも毎週、週末を二人きりで過ごしているようだし、暁に他の女の影は今のところ、見当たらない。ということは…。
(牽制ってところか…。)
事実。
密かに穂乃香を狙っていた男性社員から、「課長と橘さん、最近おかしくないか?」と何気に尋ねられたのも数回どころではない。
穂乃香自身は気がついていないのだが、密かに穂乃香に気がある男性社員は存在するのだ。そして、それとなく穂乃香のことを聞き出そうと真紀に話しかけてくる人たちを、真紀は頑張って煙に巻いているのだ。
つまり、暁の小細工は功を奏している、ってわけだ。
「ね、それよりさ。穂乃香?」
「何?」
「課長のマンションってどんなの?」
「え?」
「実は前から気になってるのよね。やっぱり部屋の中は綺麗なの?」
穂乃香が呆れ気味に真紀を見るが、真紀の方はそんな視線、痛くも痒くもないようだ。
「う〜ん。普通、かな。」
「普通?」
「うん。あ、でも。」
「でも?」
「清水君の部屋よりは綺麗だよ。」
「………。」
そう報告する穂乃香に、無言の鉄拳が下ったのは言うまでもない。
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