「―――喉、渇いた…。」
そう呟いて、穂乃香はそっと瞳を開けた。
自分の視界に安心しきって寝ている暁の顔が入ってくる。心底安らいだ表情をしていてくれるのがなんとなく嬉しい。
(もう、一ヶ月。だよね…。)
そんなことが穂乃香の脳裏に浮かぶ。
穂乃香と暁が(半ば騙されるように?)付き合い始めて、1ヶ月が経過した。
付き合い始め当初、暁は『穂乃香がその気になるまでは絶対に抱かない』と明言したのだ。だから、穂乃香はまだ暁とまだ肌を合わせていない。勿論、付き合うきっかけとなったあの夜には肌を合わしているのだろうが、穂乃香は酔っ払っていてまったく記憶にないのだ。
つまり、穂乃香的にはまだ、「プラトニック・ラブ」というとこだろうか…。
(ふふっ。なんか大事にされているみたいで嬉しい。)
いままで付き合ってきた男性たちとはまったく違う扱いに、穂乃香の心はくすぐったくなる。
ただ、彼が唯一主張するのは、『穂乃香は週末は、俺と過ごすように』とのことだった。彼の主張によると、自分は穂乃香の彼氏なのだから、穂乃香は金曜日の夜から暁のマンションに泊まるのが当たり前、なのだそうだ。
そして、二人で週末をこの暁のマンションで過ごし、夜は当然のように穂乃香を大切そうに抱きしめて眠るのだ。
穂乃香は自分をまるで宝物のように抱きしめてくれている暁の腕をそっとはずした。
「大丈夫、よね?」
ちょっとした物音にもすぐに起きてしまう暁なので、ただ彼の腕を抜け出すのにもすごく気を使ってしまう。
(―――だって、今週はとくに忙しかったもんね…。)
今週は穂乃香を筆頭にケアレス・ミスをする部下が、暁の仕事をたびたび邪魔をしていた。いつもの仕事に加え、それらの手直しを指示しなければならず、必然と暁の仕事は忙しかったのだ。
(ご免なさい…。)
意図的ではなかったとはいえ、彼が忙しくなる一端を自分が担っていたことにすごく責任を感じるのだ。
今日の夜。
半ば連れ去られるかのように強引に、このマンションに連れて来られた穂乃香はすぐにそのことについて謝罪をしたのだが、暁のほうはというと…。
「そんなに穂乃香が思っているほど、迷惑にはなってないよ。それより、この週末、俺のそばで笑っててくれるかい?それだけでエネルギー満タンになるから。」
そういって、微笑むだけだった。
こんなときの暁はすごく優しい。
(あぁ、それだけじゃなかったけど…。)
先ほどの気障な台詞の後、ちゃっかり穂乃香にキスをしたのだった。
(//////。)
穂乃香は我知らず顔を真っ赤にする。
暁は本当に豊かに愛情を表現してくる。職場では、穂乃香の希望を聞き、他人の振りをしているが、今日のような暁のマンションで二人きりになったときなどは、他人に見られたら穂乃香が恥ずかしくなるくらいにベタベタしてくるし、仕事で見せる顔と全く違う顔を見せてくれる。
(たとえば、こんな無防備な顔とか、ね。)
暁と付き合うようになって1ヶ月。
穂乃香はそれまで知っていた暁の会社での顔が、本当は「誰にでも優しい」のではなく、「誰のことも大切にしていない」からだと確信している。
他の誰も特別ではないから、誰かを怒るほど大切ではないから、「誰にでも」優しくしていたのだ。
暁は付き合うようになってから、他の誰よりも穂乃香の提出する書類を丁寧に添削するようになった。それはそれほど顕著ではないので周りの社員たちは気付いていない。でも、それは彼の会社での精一杯の愛情表現だと思っている。
「じゃ、ちょっとだけ行って来るね?」
穂乃香は静かに寝息を立てている暁の様子を伺い、彼が完全に寝ていることを確認するとその頬にちゅっとキスをして彼の腕から抜け出した。
*****
「えっと、水でいいかな…。」
穂乃香はもう今では見慣れたキッチンに入っていく。
(―――なんか、初めてきた時と大分変わったよね…。)
そんな埒もないことを考えてしまう。
穂乃香がふと見回したキッチンだけでも、随分様変わりしている。
一人用の食器しかなかったのに、穂乃香専用の食器が置かれているし、調味料もこの1ヶ月で倍は増えている。
フライパンもお鍋も何もかもが1ヶ月前の時よりも確実に増えた。穂乃香が土曜日や日曜日などに手料理を振る舞い、暁もそれを喜んでくれているからだ。
「―――なんだか、嬉しいかも///。」
気がついたらそんな言葉がこぼれていた。こんなことは多分、些細なことなんだろうけど、この暁のマンションに確実に穂乃香の存在すべき場所が少しずつ出来ていく様子を見ていると、すごく幸せに感じるのだ。
「ふふっ。」
「何をそんなに楽しそうにしているんだい?」
そう呟かれる言葉とともに、穂乃香の首に暁の腕が廻された。
「あ、課…、じゃなかった。」
「今、間違って『課長』って言いかけた、よね?」
さっきまでおとなしく閉じられていたその瞳には、意地悪そうな光が浮かんでいる。
「最後まで、言ってないです!!」
「『最後まで』ってことは、言いかけたことは認めるってことだよね?」
「―――う゛っ」
何も言い返せない穂乃香に、暁は嬉しそうに微笑んだ。
「じゃぁ、罰ゲームだね。」
そう言って暁は自分の唇を指す。
「でも、言ってないじゃないですか?!」
「言いかけたのは事実だろ?だから、罰ゲームに相当するよ。」
「――――――っ。」
まだ行動を起こさない穂乃香に、暁はじゃぁ、と一つ提案をする。
「穂乃香から俺にキスをするのが恥ずかしいなら、俺からしても良いよ。―――ただし、その時はすっごく濃いのを、ね?」
「?!」
「せっかくだから選ばせてあげるけど?」
嬉しそうに持ちかける暁に、穂乃香は真っ赤に頬を染める。
「―――目をつぶって、屈んで下さいっ。」
「えー、俺からしてあげても良いんだけど…。」
残念そうに呟く暁に穂乃香は小さな声でお願いをする。
「早くってば!!」
恥ずかしいことはさっさと終わらせてしまいたいとばかりに急かすと、暁のほうは諦めたように素直に穂乃香の言葉に従った。
ちゅっ。
小さな音が静寂なキッチンの中に響く。
「―――もう終わり?」
残念そうな暁に穂乃香はさらに頬を赤らめた。
「もう終わりです!!」
「さっきは頬にキスしてくれたからね。今日はこれで許すよ。」
にんまり笑う暁の言葉に、穂乃香は耳まで真っ赤に染める。
「―――なっ?!いっ?!」
「起きてたよ、最初から。」
「じゃぁ、何で寝真似なんて///。」
「それは勿論、穂乃香がどんなことをしてくれるかなって思ってね。」
「!!」
「でも、まさか頬にキスしてくれるなんて思わなかったよ?」
「//////!!」
満足げに微笑む暁の腕がゆっくりと背中に廻された。
「さぁ、行こうか?」
悪魔的に微笑む暁と、彼に抱きしめられたままこれまで以上に頬を染めた穂乃香は、リビングの奥の寝室へと戻っていった。
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