あれから1ヶ月が経った。
 会社ではただの上司と部下。
 私生活では恋人同士。
 そんな微妙な関係がまだ続いていた。
 
 「橘君、ちょっと…。」
 先ほど提出した書類に眼を落としたまま、暁は眉間にしわを寄せて穂乃香を呼び出す。
 穂乃香の席から少し離れている暁だが、そこからも十分彼の怒りが伝わってくる。
 「穂乃香?大丈夫?」
 視線を上げると友人の真紀がやや心配そうに問いかけてくる。今月になってから何回か、穂乃香にしては珍しい初歩的なミスが目立っているのだ。それはもう周知の事実で、暁が穂乃香を呼びつけるたびに、同じ課のほかの人たちが周りに分からないように耳をふさぐ光景が見られる。コレは今では当たり前の光景になりつつもあった。
 ある者は面白そうに、またある者はそれが当たり前の光景のように、二人の様子をそっと見守っていた。
 「―――はい、課長。」
 イヤだなという表情を前面に出しつつ、おとなしく課長席の前に歩いていく。その足取りは当然のように重かった。
 「―――この文章、ちゃんと読み直してから提出してくれたんだよね?モチロン。」
 眉間のしわは、ここ最近毎日のように彼の顔に浮かんだままだ。
 視線は零下を思わせるほどに冷たい。
 「え?はい…。」
 素直にこくんと頷く穂乃香に暁の眉間のしわがまた少し深くなった。
 「君は『私達自身』を『私達自信』と書いてるみたいだけど?」
 この一ヶ月で何度言わせるんだ?
 そう言っている視線が穂乃香の顔に落とされた。
 ご丁寧に指摘の場所に赤ペンでチェックがされた書類が穂乃香の前に差し出された。
 「―――あ…。」
 今までの穂乃香だったらありえないミスだ。
 仕事が丁寧かつ的確。
 何もやらせても完璧にこなすはずの穂乃香にしては、珍しい凡ミスだった。
 「―――す、すみません…。」
 小さな声で謝罪の意を伝える穂乃香に、暁はため息さえもついてくれない。
 「ってことでもう一度最初から書類を見直してくれるかい?」
 柔らかな物腰のまま穂乃香に書類をつき返した暁は、自分の仕事に没頭するがごとく手元の視線に再び視線を落とした。
 「すみません。すぐ訂正します。」
 そう小さな声で答えた穂乃香はすごすごと自分の席へと戻っていった。
 暁はその言葉を聴いているのかいないのか、視線を上げることなく生返事を返すだけだった。
 
 「ねぇ、穂乃香。―――本当に大丈夫?」
 今までの穂乃香では考えられないような初歩的ミスが続いている。そのことに心配した真紀がそっと問いかけてきた。
 「……うん…。」
 やや気落ちした穂乃香の様子に真紀はますます考え込むように穂乃香を見つめる。
 この1ヶ月。何度も二人の間でやってるやり取りだが、穂乃香が何か失敗をするたびに気にかけて声をかけてくれる真紀の存在は本当にありがたかった。だからこそ、暁とのことを話す勇気がない自分が歯がゆくてならないのだ。
 ちょっとした様子の違いにすばやく気づき、心配してくれる親友に穂乃香は思わず口元をほころばした。
 「とりあえず、コレしちゃわなきゃ…。」
 あまり気の進まないように小さくため息をつくと、先ほど提出した書類に眼を通していく。暁が指摘したほかにも自分の間違いを見つけて赤ペンで訂正する。
 「―――午前中、コレだけで終わってしまいそう…。」
 思うようにはかどらない自分の仕事の予定に大きなため息をつくと、今度はPCを立ち上げて訂正を加えていく。
 暁と付き合うようになってから、浮かれているわけでもないのにこんな風にミスをしてしまうようになった自分に心底嫌気が差してくる。
 (いままで、こんなことはなかったのに…。)
 そうなった原因も本当は分かっている。
 
 ―――あれから1ヶ月。
 ―――暁と付き合い始めて1ヶ月が経過したのだ。
 (せっかく同じ部署で働いているのに…。)
 そう心の中でそっと呟いた。
 付き合い始めてからようやく、暁が女性社員にどんな眼で見られているのかを知った。
 暁自身がそういうことを嫌がっているのが分かっているので、表立って暁にアプローチしてくる人間はそうはいない。
 だがそれでも穂乃香が知っているだけでも10人は暁に猛アタックして敗れ去った。そして少なくともその3倍は暁に好意以上の視線を送り続けているのが分かる。
 だが彼と付き合っているはずの穂乃香はそんなそぶりを見せることはできない。
 何度も何度も暁と話し合ってきたのだ。
 暁としては二人の関係を表ざたにしたいと望んでいたのだが、それを頑固としてそれを受け付けなかったのは穂乃香自身である。
 穂乃香としては公私混同を避けたいというのがその要因だが、今から考えたら公表していたほうがましだったかもしれない。
 そうすれば少なくとも、
 「私の暁さんにそんなに近づかないで。」
 と正面をきって言えるからだ。
 だが実際は、公表をしていないために、他の女子社員が近づいたところで何も言い返されないのだ。
 このことは真紀にだった話していない。
 例の一件があったときに、『高志とは別れた』とそれでけしか報告していないのだ。
 本当はそれだけじゃなかった。
 だが、あんなに毛嫌いしていた暁と付き合うようになったというに、穂乃香の中でどこかためらいがあったためだろう。
 モチロン、真紀を信じていないわけじゃない。もし自分と暁の関係を話すとしたら一番に真紀に話すだろう。
 
 (あ〜ぁ…。何やってるのかなぁ…。)
 そんな埒もないことが頭の中によぎる。
 暁が自分以外の女子社員としゃべっているのを見るたびに、もやもやした思いが自分の中に生まれてくる。
 (―――こんなはずじゃなかったのに…。)
 少なくとも付き合う前から付き合い始めのころから、こんな風に暁の周りに女子社員がいっぱいいるのは見てきたし、それで不快感など感じたことなど一度もなかったはずだ。
 暁に対する自分の対場が変化しただけ。
 ただ、それだけなのに…。

 ―――こんなに嫉妬を感じるだなんて…。
 そう自分を叱咤しても一度生まれたもやもや感は消えることはなかった。


 (こんな自分なんて大っ嫌い!!)
 ついこの間まで付き合ってきたはずの高志にさえ感じたことのない思い。
 このはじめての感情に対し大きな戸惑いを覚える穂乃香だった。
 
 そんな穂乃香を心配そうに見つめる視線とうれしそうな光をたたえた視線が互いを交差する。
 穂乃香はそっとため息を吐くと、それらに気づくことなく先ほど暁から指摘された部分を変更すべく机に向かうのだった。