「 ―――げ、か、課長っ」
 椅子に座ったまま、半歩退いた穂乃香にお疲れ様と入れたてのコーヒーが手渡された。
 「で?」
 「『で?』って……。」
 その意味するところは分かってはいるのだが、暗にそれを明確にすることを避けたい穂乃香は、そう問い返した。
 「橘が俺のことをどう見ているかって事。分かってるはずだよね?」
 仕事モードの時の越野は、物腰が柔らかで、自分の事を常に『僕』と言っていた。
 「―――か、課長。口調が…。」
 いつもと違うのではと言いたい穂乃香だが、そんな言葉も発せないほど、威圧的な雰囲気をかもし出している。いつのも『誰にでも優しい越野暁』とは明らかに違うようだ。
 「あ、これ?いつものは対外的なしゃべり方だからね。因みに本当の俺はコレだから。」
 不敵に笑う越野に対し、穂乃香はもう半歩退いた。
 「で?橘は俺のことを他にどう見てるのかな?」
 じりじりとにじり寄ってくる越野に対し、穂乃香はどんどんと壁に追い詰められていく。
 「―――か、課長?」
 「橘とは一度じっくりと話を聞きたいと思っていたんだ。これから食事にでも行ってゆっくり話しを聞こうか?」
 「―――し、仕事があるじゃないですか!!」
 「この仕事は今日が期限ってわけじゃないからな。」
 「じゃ、じゃぁ、私が手伝うことなんか…。」
 「無論だ。ちょっと橘と話がしたくてな。」
 「「―――話って?」
 「勿論。君が俺をどう思っているのか、だ。いつも俺を睨みつけているだろ?」
 「――――――睨みつけてなんて………。」
 ちょっと困惑的に眉をひそめる。何かにつけ、穂乃香が越野を見ていたのは本当だからだ。だがそれはさりげなくであって、よもや気づかれていたなんて思っていなかったのだ。
 「まぁ、誰も気づいてはいないみたいだけどね。」
 困惑する穂乃香の様子を面白がっているように微笑を浮かべる。
 「…………。」
 「ってことで、今から行こうか?」
 「い、行くってまだ行ってないですけど…。」
 「知ってるよ。だが、よもや刃向かう気じゃ、ないよな?」
 不敵に笑う越野に、穂乃香はそれ以上何も言えなかった。


 「―――だから、そういうつもりじゃないんですってば。」
 ほろ酔い気分の穂乃香は、今日何度目かのセリフを越野に言い募る。
 「じゃぁ、いつも俺を睨み付けていたのは?」
 「睨み付けてなんてないですっ!!」
 「じゃぁ、何なんだ?!」
 面白そうに喉の奥で笑う越野に、穂乃香はひたっと睨み付ける。
 「ただ、みんなが課長をカッコいいって言うから…。」
 「へぇ?じゃ、橘も俺のことをカッコいいって思っているんだ?」
 「そ、そんなこと一言も言ってないです〜っ。」
 「―――そうか?」
 「そうです!!べ、別に課長のことなんて…。」
 「俺のことなんて、何?」
 半ば笑いを堪えるように、穂乃香をからかっている様に問う越野に、穂乃香が答えようと口を開けた、その時。
 同じ居酒屋の2つ隣の席で仲睦まじげに話している男女の声が聞こえてきた。

 
 「―――ねぇ、たかし〜。今日家に泊まっていかない?親が今夜から旅行でいないのよ。」
 甘ったるい、男に媚を売るような女性の声が小声ながら聞こえてくる。
 二人の席からは、男性の顔は見えない。ただ、その服装から大学生だと窺い知れる。
 (―――そういえば、最近。高志君の家に行ってないなぁ。)
 自分の真正面にいる越野をよそに、穂乃香はそんなことを漠然と考えていた。多分、彼女の言った名前がたまたま高志と同じだったからだろう。
 何気に振り向いた視線を先には、頷くかどうか迷っている男の背中が見える。
 「何?駄目なの??」
 「嫌…。実はさ、明日ちょっと用があってさ…。」
 そう応える男性の声に、穂乃香の肩がぴくん、と揺れる。
 「何よぉ〜。また彼女の方を取っちゃうんだ?」
 「だって仕方ないだろ?」
 「そりゃ、分かってるわよ。初めは彼女がいてもいいからって私から言ったんだもん。でも、もう彼女と別れるって言ってくれたじゃない。」
 「まだ、話してないんだよ、あいつには。―――それに今まで付き合ってきたから『情』ってものも少しあってさ…。」
 その声に、穂乃香は目の前に越野がいることもすっかり忘れ、食い入るようにその大学生の背中を見続けた。
 (―――あのTシャツ、見たことがある…。わたしが2年前の高志君の誕生日にあげたやつとそっくりだ…。)
 そんなことをぼんやりと考えていた。
 その様子を怪訝そうに見つめる越野にはまったく気づかない。
 「何よ、たかしってば、口を開くと彼女の話ばかりじゃん。その穂乃香さんって人が社会人になってから、話が合わないって言ってるくせにそんなにその彼女の方が私よりも大切なんだ?」
 「そうじゃねぇって、何回も言ってるだろ。穂乃香よりも葉月の方が好きなんだよ、俺は!!」
 そう言い切る大学生が、一緒にいる彼女の方に手を伸ばした左手の薬指には、穂乃香と同じデザインのペアリングが光っている。
 (アレは…。)
 短大の卒業の記念に二人で買ったペアリングだった。
 「―――た、高志君…?」
 そう呟く穂乃香の声が聞こえてきたのか、先ほどまで深刻そうに話をしていた大学生が慌てたように穂乃香のほうを振り向いた。
 ―――それはまぐれもなく、穂乃香と付き合っているはずの高志だった。
 「――――――ほ、穂乃香?!」
 慌てた様子の高志は急いで今まで握っていた彼女の手を振り払った。
 「ち、違うんだっ、穂乃香…。コレは……。」
 「あ、ちょうどよかった。あなたが穂乃香さんなんだ?」
 言い訳をしようとする高志の声に重なるように、葉月が妖艶に微笑んだ。
 「ちょうどよかったじゃない?高志。彼女にちゃんと説明してよね。私たち、もう付き合い始めて半年になるんだってね。」
 「は、半年?」?
 「そ。穂乃香さんは忙しくってあんまり逢えないんでしょ?だから高志はあなたを見限って私と付き合ってるってわけ。」
 得意そうに言い放つ葉月に対し、穂乃香のほうは呆然としたまま、黙って聞いているだけだった。
 「穂乃香っ、違うんだ。」
 そう言う高志の声も穂乃香の耳には届いてこない。
 
 「へぇ?そうなのかい?じゃぁ、丁度よかったよ。」
 静かな沈黙を破るように響いたのは飄々とした、越野の声だった。
 越野は呆然としている穂乃香の腰に手を回し、素早く自分の方に引き寄せた。
 「俺たちも、付き合ってるんだ。穂乃香が今付き合ってる彼氏との事で悩んでたんだ。なんて説明すればいいのかってね。」
 自信満々に言い放つ越野はそのまま自分の腕の中にいる穂乃香の顎をそっと持ち上げると。

 ―――そして、啄ばむような優しいキスをした。

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