「橘さん。悪いけど今日、少し残業してくれるかい?僕の仕事を手伝ってもらえると嬉しいんだけど」
 その日の午後四時。
 これから飲みにいくのでどうやって仕事を定時に終わらせようかと思っていた穂乃香に課長の越野が声をかけた。
 「え?今日ですか?」
 「あぁ。もし予定がなかったらでいいんだけど・・・。」
 本当にすまなそうに問いかける課長の言葉に、穂乃香は慌てて周りを見渡した。だが、誰もが気まずそうに穂乃香の視線を避けるように俯く。
 当然だろう。週末前の金曜日。穂乃香に変わって残業を引き受けてくれるような人などいるはずもない。穂乃香はそっとため息をついた。
 せっかくの金曜日だ。しかも今日は真紀と約束をしているのだ。
 『予定がある』と告げようとした穂乃香を真紀が隣の席からつついた。
 「今度でも、いいよ。」
 そう小声で告げる。
 (まぁ、しょうがないか。仕事だしね。真紀もいいって言ってるし…。)
 そう結論付けると、了承する旨を越野に伝え、早々にパソコンに向かって仕事をすることする。
 金曜日に夜の遅くまで残業って事だけは御免こうむりたい。


 ―――越野課長ってカッコいいよね。

 先ほどの昼休みに穂乃香の親友、真紀がぽつりともらした言葉が穂乃香の脳裏にふとよみがえる。その本人である真紀は残業を命じられた穂乃香を見捨ててさっさと定時帰宅していた。

 (―――まぁ、確かにね…。)

 穂乃香は自分の机に向かって眉間に皺をよせ、やや難しい顔でパソコンを操っている越野の顔を盗み見しつつ心の中でそっと呟いた。
 穂乃香自身は越野がやや苦手ではあるが、客観的に見てみると真紀の言う、『カッコいい』という言葉に頷ける。
 越野はまだ20代後半ではあったが、彼よりも年配の人を押しのけこの4月から課長と言う大任を任されている。しかも、その容姿は『どこのモデルですか?』と問いかけてしまいたくなるくらいには整っているのだ。それはもう、嫌味なくらいに…。
 上司には信頼され、部下からも慕われている彼は、文句なくカッコいい部類には入るだろう。
 「彼が声を荒らげるところを未だかつて見たことがない。」
 そう証言する人もいる。彼は誰にでも好かれ、そして誰にでも優しい。そんな人物だ。

 『仕事も出来て、人柄もいい。その上容姿まで整っていて、彼を嫌う人間などいないだろう。』
 それが彼越野暁に対する周りの評価だった。


 (そんな課長を胡散臭く見てるのって、私くらいだろうな・・・)
 そう苦笑をもらしてまう。
 (―――だって、ね。誰にでも優しいとか、声を荒らげているところを見たことがないって、普通じゃなくない?)
 そもそも、穂乃香は彼を初めて会ったときから苦手だったりする。
 モチロン、特に何かあったわけではない。
 どちらかと言うと、越野にはお世話になっている一人だったりする。
 だが、そんな彼にネツをあげている同僚を横目で見る度、そう意地悪く思ってしまうのだ。
 「思わず、欠陥人間じゃない?って言いたいくらいよ!!」
 穂乃香は知らず知らずのうちに、声に出してしまっていた。
 「欠陥人間って?」
 そう自然に問いかける男性の声に、穂乃香は気にも留めずに返事を返す。
 「だって、誰にでも優しいってところからしておかしいじゃない。それって、皆同じで特別な人がいないってことでしょ?そんなの人間として、どうかと思うわけよ。」
 「そうかな?」
 「そうよ。それに『彼が声を荒らげるところを未だかつて見たことがない。』ってのもどうよ?って思わない?感情が欠落しているとしか思えないもの。」
 「―――因みにそれって、誰のこと?」
 その男性は半ばおかしそうに問いかけた。
 「モチロン、課長のことに決まってるじゃない。」
 そう断言する穂乃香の言葉に、苦笑が帰ってきた。
 「へぇ?橘は俺のことそんな風に思って見ていたんだ?」
 半ば面白そうに問いかける男性の声に、うん、と頷きかけた穂乃香の動作がピタッととまる。
 (え?)
 ―――俺のこと?
 「中々興味深い見解だね。」
 ゆっくりと動かした穂乃香の視線の先にはいたのは、ニコニコと笑っている越野暁、その人だった。