それ以降、アーサーがその地を訪れることはなかった。だが、幼い少女の記憶だけは鮮明に残っている。
 (―――ソフィア。それと、貴族の姫君)
 それしか分からないけど…。

 それでもあの少女のことを忘れることはなかった。―――それこそ、十二年後に再会するまで…。


******


 12年後になるまでに、アーサーは家族をどんどん失っていった。
 初めは次兄だった。
 彼は、とある子爵令嬢と婚約をしたいと父親に話していた。相手はこの近くに領地を持つドレイン子爵の長女。アーサーもその話を次兄から聞いていたのだ。
 『彼女を愛しているのだ。』
と、
 『彼女がもう少し大きくなったら、自分が一人前になったら彼女を迎えに行く。』
と。
 それは、次兄にとって本当に神聖な誓いだったことを、アーサーは理解していた。

 だが、彼のその約束は果たされぬまま、病気でなくなった。
 次兄の命を奪ったその熱病は、あっという間に広がり、彼が大人になりきる前に父も兄もいなくなっていた。
 生き残った彼は、何も知らないままこのシュメール侯爵家を継がなければなかった。そしてそれだけではない。彼にはもう一つ大切な使命があったのだ。
 『結婚して子供を持つこと』
 この話は、彼がシュメール侯爵家を継いだ頃から親戚筋から話を持ってこられていた。
 「まだ、一人前ではありませんから。」
 そう言って退けていたのだが、この頃になってやたらと親戚がやってきてはその話をする始末。挙句の果てに見合い用の写真を大量に持ってくる始末。
 その写真の令嬢はどれもこれも、政略結婚ですと顔に書いているような令嬢ばかりだ。
 ―――このシュメール侯爵家のためになる。
 それだけを基準に選ばれたといっても過言ではない。


 (それならいっそ…。)
 アーサーがそう思ったのは、マルヘイユ夫人がこの屋敷の世話をするためと言ってやってきた頃だった。マルヘイユ夫人は決して私利私欲によって突き動かされる人間ではないことは、夫人と過ごし始めてからすぐに分かった。
 とはいえ、この邸の女主人として以上の分野にまで口を出してくることもあった。

 何も知らないアーサーなので、そのこと自体は決して迷惑ではない。迷惑ではないのだが…。
 たまに鼻につくこともある。だからこそ、決断を迫られたと言っても過言ではない。


 「マルヘイユ夫人。私もそろそろ侯爵として何とか仕事をこなせるようになってきたと思うのだが…。」
 食事時。
 いつもは無口な彼の突然の問いかけに、彼女の手が止まった。

 「えぇ。それは勿論。初めはどうなるかと正直思いましたけど、もう一人前ですわね。後は親族が言うように奥方様を娶っていただければ言うことがないんですけどね。私もそろそろ故郷が恋しくなってまいりましたことですし…。」
 「えぇ。その話なんですが、私は親戚たちの薦める令嬢との結婚を望んではいません。」
 「!!まぁ?!―――じゃぁ、どなたか意中の姫君でも?」
 「…そんなところです。」
 「んっまぁ。何故早くおっしゃらなかったのです。そうすれば親戚たちも無理に見合いをなどとは言わなかったと思いますのに…。」
 ナプキンで口元を拭いつつ、マルヘイユ夫人は話を続ける。
 「それで、どちらのお嬢様ですの?あなたの心を射止めた幸運な方は…。」


 アーサーは、一息つくと言葉を続けた。
 「この近くに領地を持つドレイン子爵の長女です。」
 「―――ドレイン子爵令嬢、ですか?」
 マルヘイユ夫人はアーサーの言う令嬢の名前を頭の中で繰り返した。どう考えても彼女の膨大な貴族辞書の中にそのような貴族はインプットされてなかった。」
 「―――この近くに、そのような貴族が住んでいたかしら?」
 「えぇ。部下に探させたんですがわが領地からそれほど遠くないところに住んでいる没落貴族のご息女です。」
 「!!アーサー?!あ、あなた、正気なんですか?!ぼ、没落貴族の娘ですってっ。位は侯爵家よりもはるかに下な上に、没落貴族だと持参金も当てにならないってことですわよ?!」
 「私は特にこの結婚によって何か得ようとは思っていません。つまり政略結婚ではないということを分かっていただきたい。」
 「アーサー…。」
 「取り合えず、私は彼女との結婚しか考えていません。近々、使者を送って正式に結婚を申し込みますので。」


 アーサーはそれだけを告げると、食事を終え部屋を出た。
 部屋には、真っ青な顔をしたマルヘイユ夫人がだけが、未だ信じられないようにテーブルの一点をただ、見つめているだけだった。