「父上、兄上。ラッシャーと遠出に行って参ります。」
 アーサーは当時9歳。まだ何も知らない子供だった。


 この年、アーサーは父のシュメール侯爵から『もう、一人前なのだから』と大人の馬をプレゼントされた。名前はラッシャー。毎日丹念に自分でブラッシングをしているためか、家の馬の中でひときわ艶がいいと自負している。
 「アーサー。あまり遠くに行くんじゃないぞ。」
 そう返事を返してきたのは次兄のレオンだった。
 アーサーは、4人兄弟の末っ子で他に2人の兄がいるのだが、一番大好きなのがこのレオンだった。
 「大丈夫です。レオン兄上。夕方には帰ります。」
 そう返事を返すと、ラッシャーに鞭を入れて門を出て行った。

 いつもはせいぜい領地の半ばにある小川ぐらいまでしか来ないのだが、今日はちょっと大人になったところを見せてやりたい気分だった。
 (もう少し、足を伸ばそうかな?)
 小さい頃の虚栄心である。
 このくらいの年頃の子供は、少しでも大人に認められたくって、自分が出来ると思っている以上のことをしがちなのだ。アーサーもそうだった。広い広いシュメール家の領土の端まで行ってみようとして、馬を走らせていた。
 だが気がつくと、シュメール侯爵家の領地を踏み越えて、他の領地へと迷い込んでいた。その証拠に少女と少々年配の女性の姿があった。


 「お嬢ちゃま。何をやってらっしゃるんです?」
 「え〜、お父様とお母様のお部屋に花を生けようと思って。」
 そう答えたのは、アーサーより少し年少かと思われる少女だった。
 「それでしたら、わざわざここまでいらっしゃらなくっても、ご自宅の庭で十分じゃないですか?」
 ばあやと思われる少し年配の女性が呆れ顔で言う。
 「だって、あと、ここの野いちごも欲しかったんですもん。」
 木陰から覗き込んだアーサーの目に飛び込んできたのは、花かごの中にかわいらしい花と、その倍以上詰まれた野いちごだった。
 (くっ、くっ、くっ…。)
 余りに無邪気な光景に隠れていたのも忘れてアーサーは肩を震わせて笑ってしまう。
 
 「だれ?」
 そばにあった木々が揺れる音がし、少女は思わず身構えてしまう。
 「あ、すみません。馬に乗っているうちにこちらの領地まで迷い込んでしまったみたいで…。」
 子供らしくない喋り方だが、自分より確かに年下な可愛らしい少女に思わず見栄を張ってしまった。
 「お兄ちゃん、だれ?一緒に遊ぶ?」
 そのニッコリ笑うその愛らしい少女の口元には一面に赤い雫が乱れ飛んでいた。
 「…口に野いちごの汁が飛び散ってるよ?」
 アーサーは口元に笑みを見せながら二人のそばによっていく。ばあやの方も、相手が明らかに子供だとわかり、警戒を解く。
 「あっ」
 少女の方は慌てて口元の汁をドレスの袖で拭く。
 「野いちごの汁、取れた?」
 目をまん丸にして訊ねてくる少女に、アーサーは笑って見せた。
 「大丈夫だよ?お姫様。」
 「ホンと?」
 嬉しそうに笑う少女にアーサーはニッコリと笑う。
 「それより、野いちごいっぱい採ったんだね?」
 アーサーの視線が花かごの方に向いているのを見て、少女は偉そうに胸を張る。
 「うん。ここの野いちご、美味しいんだよ〜。」
 まだまだ採りそうな少女の勢いに、アーサーは彼女の横に座り込む。
 「へぇ、そうなんだ?僕にも一つくれる?」
 「うん。ひとつじゃなくていっぱい採っていいよ。」
 満面の笑顔で少女がアーサーに両手いっぱいに野いちごを差し出した。
 「一緒に食べよ、お兄ちゃん。」
 アーサーは少女の手から野いちごを数個貰うと、二人で仲良く野いちごを食べたのだった。
 夕方まで。

 侯爵家の四男として育ったアーサーは、小さい頃から、ほんの子供のときから欲にまみれた大人の中で育っていた。侯爵家の跡取りではないが、侯爵家と縁続きになりたいと願う者が絶えないのだ。そんなアーサーにとってこの無邪気で微笑むこの少女はひどく心にしみる。

 「ソフィアお嬢ちゃま。そろそろ帰らないといけない時間ですよ。」
 辺りがすっかり夕闇に染まる頃、ばあやはそう声をかけてきた。
 本来なら、こんな時間まで貴族の娘がこんな時間まで男と二人きりで話すことなど、なかっただろう。だが、二人ともまだ子供であったことが功を奏したのか、ばあやの方も別段気にするようなこともなく、二人の様子を微笑ましげに見てただけだった。

 「あ、うん。ばあや、すぐ行くね。それじゃ、お兄ちゃん、またね。」
 ―――そういい残して彼女は帰っていった。自分の屋敷に向かって。
 


 それは、アーサーにとって忘れがたい思い出となった。
 所謂、淡い初恋ってヤツであろうか。

 たとえ帰宅後、遅くなったことで父親や次兄に怒られるという、オプションがついていたとしても…