昼休み。
 綾奈は遅れてやって来た滝野コーポレーション社長第二秘書、龍野雅也と向かい合って食事をしていた。
 「びっくりだったね。―――昨日に引き続き。」
 雅也の言葉に綾奈は大きく同意する。
 「本当に。龍野さんが転属したのはこの間お聞きしてましたけど、まさか同じ部署になるなんて―――まぁ、私なんてみそっかすですけど…。でも、龍野さんは全然違う職種じゃないですか?」
 綾奈の言いように雅也は面白そうに目を細める。
 「澤井さんがみそっかすかどうかはともかくとして、俺が秘書をしてるのはそんな予想外のことでもないんだ。」
 「そう、なんですか?」
 「うん。まぁ、ちょっといろいろあってね。―――それよりもびっくりしたのは澤井さんのことの方だよ。昨日、社宅であったのにもびっくりしてけど、まさか秘書課に配属されてるなんて…。しかも会長付きなんだよね?」
 「はぁ。私みたいなのが会長付きになるなんて、私の方がびっくりでしたけど。」
 今でも信じられないのだ、綾奈自身。なので雅也が驚くのも無理はないと思う。
 「っていうか、会長に専属秘書なんているのか?って感じかな。澤井さんがどうこうって訳じゃなく。」
 気を遣ってくれている雅也の言葉に、綾奈はふぅ〜と大きく息を吐いた。緊張していないつもりでもやはり緊張していたのだろう。
 「もぅ、会長は何を考えているのか分からないんですよね。」
 「まぁ、狸おやじだものね、あいつは。」
 「あいつ?」
 余りにも親しげなその呼び名に綾奈は思わず聞き返した。
 「あ、いや…。それよりも、澤井さんは会長と直接会ったことがあるのかい?」
 「え、えぇ。この会社に採用になる前に。」
 その時のことは今でも忘れられないだろう。何といってもいきなり拉致られたのだから。
 「へぇ〜…。」
 何といったらいいのか、というような雅也の視線に綾奈は苦笑を返すしかない。綾奈自身も何といったらいいのかという心境である。
 「なんだかよく分からないんですけどね。」
 まぁ、そうとしか言えないだろう。毅の心底がみえないのだから。第一、毅の言う『『一般人』の感覚を持っている人が近くにいてほしい』や、『将来への投資』といった言葉を頭から信じていない。だが、現実問題今回の滝野コーポレーションへの入社の話は本当にありがたかった。だからこそ受けたのだ。
 「まぁ、お互いこれで同僚だね。よろしく。」
 そう言ってちょっと不敵に笑った雅也は、どこまでも綾奈の知っている雅也だった。
 (ちょっと心がほっこりしたかも。)
 雅也がいてくれる。それは知り合いが全くいない、しかもこんな大企業で働くことになった綾奈の心にはちょっと嬉しい出来事だ。
 「はい。こちらこそよろしくお願いします。先輩。」
 その言葉に雅也は苦笑を返した。
 「そんな『先輩』と呼ばれるほど、秘書課には勤務してないよ。大差ないさ。」
 「でも、先輩は先輩ですから。」
 にっこりと返してやると、雅也はそれ以上何も言えないのかむすっと黙ってしまう。でも、本当のことだ。確かに秘書課では綾奈より若干早く転属になったに過ぎないかもしれない。だが、事滝野コーポレーションでの勤務日数は年単位で違うのだから、完全な先輩と言えるだろう。
 「私のことより、龍野さんの方がすごいですよ。だって、社長秘書をされてらっしゃるんですから。」
 綾奈は思わず力説する。いくら主席秘書がいるとはいえ、社長秘書なのだ。忙しさも人の倍以上だろうし、気を遣うことも多いのではと思うのだ。
 「―――まぁ、学ぶことは、多いかな。」
 ちょっと言いよどむような沈黙の後、そう続けた雅也だった。
 「龍野さん?」
 その含みのありそうな言い方に綾奈は少し疑問を覚える。
 (どうかしたのかしら?)
 綾奈は直接には社長である『滝野孝也』のことは知らないが、ひょんな事から社長夫人である『滝野玲』と知り合った。
 (あんな素敵な人を奥さんにしてるんだもの。変な人ではないと思うんだけど…。)
 それとも、完璧に綾奈の思い違いなのだろうか?
 「あ、いや。立派な人だとは思うよ?」
 何故そこで疑問形?と突っ込みたくなる綾奈だったりする。
 「まぁ、そんなことより、澤井さんはこれから大変だね。会長のお守をしなきゃならないんだから。―――ある意味、社長秘書の俺より大変かもね。」
 それを身に染みて分かったのは、入社して半月くらい経ったころだった。